第一に、「大事難事に担当を看る」。事が起こればその担当官の問題への対応能力を見るということ、併せて仮にそのような事において自分自身は如何に処するかを常に主体的に考えるということです。第二に、「逆境順境に襟度を看る」。襟度の「襟」は「心」を指し「度量の深さを見る」といったことです。世の中は万物全て平衡の理に従って動いており、良い時・悪い時に襟度を見ると言っています。第三に、「臨喜臨怒に涵養を看る」。喜びに臨んだ時に恬淡(てんたん)としているか、怒りに臨んだ時に悠揚(ゆうよう)としているか、といったところに涵養を見ると述べています。第四に、「群行群止に識見を看る」。その人が大勢の人(…群行群止)の中で大衆的愚昧を同じようにしているか、それとも識見ある言動をとっているかを見、人を見抜いて行くということです。

人を見分けるは時間が掛かるものですが、時の経過とその人に関わる出来事は人の本質的な部分を露わにします。内面が素晴らしい人の言動あるいは立ち居振る舞いには、様々あらわれてきます。如何なる時も余り喜怒哀楽でバタバタとせずに、落ち着いて淡々としているような人物に対しては、外見上見る目もまた変わってくることでしょう。人物というのは、その人の生き方に依るものです。私は、その人の君子としての歩み如何で、人物としての評価が決すると思っています。

最後に、安岡正篤著『経世瑣言(総編)』より次の言を御紹介しておきます。我々凡人は人物たるべく、日常生活の中で、日々自分の為すべき事柄に一所懸命取り組みながら、なお学び続け、正しい道を歩んで行こうと努めねばならないのです――あの人は風韻がある、風格がある、というのはその人独特の一種の芸術的存在になって来ることであります。元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、人間の造詣(ぞうけい)、薀蓄(うんちく)となり、それが独特の情操風格を帯びて来る。これ等が人物たるの看過することの出来ない、没却することの出来ない、根本問題中の根本問題であります。そういうものを備えて来なければ人物とは云えぬ。人物を練る、人物を養うということは、そういうことを練ることです。

編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年4月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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