フョ―ドル・ドストエフスキーの「虐げられた人々」を昔読んで感動したことがあるが、歳を重ねるうちに、「誤解された人々」について関心が行くようになった。確かに、世の中には、その本意が相手に伝わらないために「誤解された人々」がいる。

クリスマスシーズンを迎え、賑わうウィーン市内の商店街風景(2023年12月9日、撮影)

「虐げられた人々」はその出自、経済力などによって、より強い立場の人から迫害を受けたり、過小評価されたりするが、「誤解された人々」は自身の考えを正しく表現できないという事情が多い。現代風にいえば、情報発信力の欠如、ないしは不十分、という事情が考えられる。

「虐げられた人々」の場合、その運命の多くは相手の手に委ねられているが、「誤解される人々」の場合、誤解というサークルから脱出するために自力でその輪をクリアして、「理解される人々」に変身できるチャンスはある。その意味で、後者は自力救済の道があるわけだ。「誤解された人々」で最悪の道は自己憐憫の虜になって、「自分はいつも正しく評価されない」といった嘆きを連発することだ。

「誤解された人々」といえば、やはり2000年前のイエスの生涯を思い出す。イエスは33歳の生涯で、はたして他者から正しく理解されたことがあっただろうか。家族でも母親マリアからイエスは正しく理解されただろうか。母親マリアに対し、「私の母とは、誰のことですか」(マタイによる福音書13章)と問い返している箇所がある。そのマリアを聖母の地位まで引き上げたのは、マリア自身の言動からではなく、その後の教会側の決定だったのだ。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカによる福音書9章57~58節)とイエスは嘆いたことがある。イエスの教えが当時の指導者たちに受け入れられていたら、そのようなことはなかっただろう。イエスは最終的には「悪魔の頭ベルゼブル」と酷評され、十字架の道を行かざるを得なかった。その意味で、イエスは「誤解された人」の人生を最後まで歩んだわけだ。