つまり、家康の勝利につながる原因をつくった秀秋の行動において、三成の意図に反して松尾山城に入城したという話は家康にとってメリットになったわけで、こうしたストーリーを脚色した可能性も指摘できるのではないだろうか。

よって、『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』が述べるところの伊藤盛正強制退去説というのも、一度白紙にして再検討すべきかもしれない」と留保をつけていた。けれども白峰氏は、その後、当初の慎重な姿勢から転換し、伊藤盛正強制退去を史実とみなしている。この点は疑問である。

加えて光成準治氏は、稲葉正成(通政)の関係史料を詳細に検討し、正成が関ヶ原合戦以前から小早川秀秋に仕えていたことを示す史料はどれも偽文書の疑いがあると指摘している。そして光成氏は「関ヶ原合戦以降に、秀秋家中に入った可能性もある。その場合、関ヶ原合戦時における通政の行動を記した由緒は、家康への貢献を主張するための創作ということになる」と推測している。傾聴に値する指摘であろう(光成準治『小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す』ミネルヴァ書房、2019年)。

『寛永諸家系図伝』は、既に松尾山に西軍の武将である伊藤盛正が入ってたにもかかわらず、小早川秀秋が実力で追い出したと語っているが、実際は石田三成らの指示による平和的な任務交代だったと考えられる。

伊藤盛正は前述のように3万石の大名なので、兵力が足りない。家康を迎え討とうと考えた場合、松尾山には数千~1万の軍勢が必要であり、伊藤盛正では松尾山を守りきることは無理である。したがって盛正による守備は一時的なもので、西軍首脳部は盛正を大身の大名と交代させる予定だった。そのような時に大軍を率いている小早川秀秋が関ヶ原へやってきたので、秀秋と交代させたのだろう。光成氏は、秀秋は「西軍の戦略として松尾山に入った蓋然性が高い」と指摘している。

常識的に考えても、十四日の段階で小早川秀秋が旗幟を鮮明にするのはリスクが大きすぎる。東軍との合流前に、西軍に包囲殲滅される恐れがあるからである。加えて、吉川広家や板坂卜斎が、石田三成らの移動の理由について知悉する立場にあったとは考えられず、合戦後の風説に立脚する推測の可能性がある。

したがって、小早川秀秋が十四日の時点で西軍を裏切り、西軍が小早川討伐(大谷救出)のために関ヶ原に移動したという白峰・高橋説には疑問がある。やはり秀秋の寝返りは開戦後と見るべきではないだろうか。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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