第43回「関ヶ原の戦い」よりNHK「家康ギャラリー」

先日の『どうする家康』第43回の放送で、関ヶ原の戦いが描かれた。劇中では、小早川秀秋は西軍(石田三成ら)と東軍(徳川家康ら)を両天秤にかけるしたたかさを見せていた。徳川家康からの「問鉄砲」におびえて、あわてて西軍から東軍に寝返る従来の軟弱な秀秋像を一新するものだったが、おそらく白峰旬氏らの新説を参照したものと思われる。

白峰氏によれば、小早川秀秋は関ヶ原合戦開戦前から東軍への寝返りを決断しており、事実上、東軍として活動していたという。

すなわち「秀秋は伏見落城後、石田三成が伊勢の安濃津城攻めに行くように指図したにもかかわらず、これに従わず関地蔵から引き返して近江の高宮に陣を取り、このため石田三成などから『二心あり』と疑われるようになった。そして、佐和山城にいた大谷吉継が秀秋を欺いて招き捕らえようとしたり、平塚為広と戸田重政を使者として高宮に遣わし秀秋に直接対面して討とうとした。その後、秀秋は近江の柏原に陣を移したところ、石田三成などが謀議して秀秋の陣を攻めようとしたので、稲葉正成は諸士と相談して兵力を率いて美濃国に行き、九月十四日に松尾山の新城に入り、その城主である伊藤盛正を排除した」と述べている(白峰旬「関ヶ原の戦いに関する再検討」『別府大学大学院紀要』10、2008年)。

この白峰氏の指摘が正しければ、西軍の武将を実力で排除している以上、関ヶ原合戦前日の時点で、小早川秀秋は明確に東軍に加担していたことになる。

高橋陽介氏も白峰説を踏襲し、「松尾山には伊藤盛正(大柿三万四〇〇〇石の領主)が入って普請をしていたが、秀秋率いる部隊はそれを追い出して、松尾山を占拠した。これは西軍に対する明確な敵対行為である。したがって、大柿の三成らが、秀秋の寝返りを知ったのは、九月一五日の昼ではなく、一四日の夜であるということになる」と語っている(乃至政彦・高橋陽介『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった 一次史料が伝える〟通説を根底から覆す〟真実とは』河出書房新社、2021年)。

さらに白峰・高橋両氏は、石田三成らが大垣城から関ヶ原に移動したのは、徳川家康に誘い出されたからではなく、小早川秀秋の寝返りを察知し、関ヶ原にいる大谷吉継を救援するためだった、と論じている。

すなわち白峰氏は、吉川広家自筆書状案に「小早川秀秋は逆意がはっきりする状況になったので、大柿衆(大垣城にいた諸将)は、山中の大谷吉継の陣は心元なくなったということで、(大垣城から)引き取った(移動した)」と書かれていることに注目している。高橋氏も吉川広家自筆書状案や家康の侍医である板坂卜斎(2代目)が記した『慶長年中卜斎記』の記述を根拠に、「小早川秀秋の寝返りを知った三成は、秀家・行長・維新の諸隊を率いて、秀秋を討つべく、雨の降るなか、山中方面へ向かった」と叙述している。

白峰説の史料的根拠は、『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』の稲葉正成(妻は春日局)の項である。稲葉正成は小早川家改易後、牢人を経て徳川家康に仕え、その子孫は大名として存続した(淀藩)。正成が関ヶ原合戦に小早川家臣として参加していたとすると、藩祖正成の名誉のためにも、稲葉家としては「小早川勢が関ヶ原合戦以前から東軍についていた」と主張する必要があった。ゆえに『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の記述は鵜呑みにはできない。

実際、白峰氏も2008年の論文では、「『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』が幕府へ提出された家譜であるという性格を考慮すると、『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』の稲葉正成の項における松尾山入城までの経緯について、秀秋と稲葉正成がいかに反石田三成の立場で軍事行動をしたか、という文脈で書かれている点には注意が必要である。