「世界人権宣言」は1948年12月10日、パリで開催された国連第3回総会で採択されて今月10日で75周年を迎える。そして1993年6月25日には、ウィーンで「世界人権会議」が開催され、「世界人権宣言」の履行を監視するため、「ウィーン宣言および行動計画」として「ウィーン人権宣言」が採択された。

オーストリアのアロイス・モック元外相

「世界人権宣言」では、第1条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と記述され、第2条は「すべての人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と明記されている(「『世界人権宣言』と『親の不在』」2023年3月13日参考)。

当方にとって、「世界人権宣言」と聞けば、ウィーンの「世界人権会議」の議長役を務めたアロイス・モック外相(当時、Alois Mock)が「ウィーン人権宣言」を掲げて喜びを表していた報道写真をどうしても思い出してしまう。今年はその「ウィーン人権宣言」採択30周年目だ。そこで同会議議長を務めたモック外相(当時)との思い出を少し振り返った。

モック外相はオーストリアでは同国の欧州連合(EU)加盟(1995年1月)の立役者であり、「ミスター・ヨーロッパ」と呼ばれてきた政治家だ。オーストリアは当時、社会民主党と国民党の連立政権だった。社民党のフラニツキー首相のもとで国民党党首だったモックさんは外相としてオーストリアのEU加盟交渉でブリュッセルとウィーンの間を飛び回っていた。その激務が後日、モック外相の健康を害することになった。オーストリア日刊紙プレッセは「モック氏はわが国のEU加盟実現の代償として自分の健康を失った」と述べていた。

当方は1989年9月15日、モックさんが外相時代、外務省執務室で単独会見した。それがモックさんとの最初の出会いだった。モックさんが健康を悪化させ、外相の立場を辞任する時、辞任記者会見には多くのジャーナリストたちが集まった。モックさんが別れを告げるとジャーナリストたちから握手が起きた。別れを告げる政治家に記者たちが暖かい拍手を送る、といったことはこれまでなかったことだ。

当方が最後にモックさんと会見したのは、モックさんが国民党の名誉党首を務めていた時だ。モックさんは当時、既にパーキンソン症が進んでいて、会話も容易ではなかった。話すことも辛そうなモックさんの姿を見て。「会見すべきではなかった」という思いが湧き、モックさんに申し訳なさを感じた。会話は10分余りで切り上げたが、モックさんは最後まで当方の質問に一生懸命答えようとされていたのを憶えている。

モックさんがパーキンソン病の治療のために政界から引退した後は、公の場に姿を見せることはほとんどなかった。エディト夫人との間には子供がいなかった。そして2017年6月1日、“ミスター・ヨーロッパ”は82歳で死去した。オーストリア国営放送は同日夜、プログラムを急きょ変更し、モックさんを追悼する番組を放映した(「さようなら“ミスター・ヨーロッパ”」2017年6月3日参考)。

ところで、「世界人権宣言」75周年、そして「ウィーン人権宣言」の30周年の今年、世界の人権状況は改善されただろうか。中国や北朝鮮などの独裁国家では人権弾圧は続き、国際社会の追及には「内部干渉」という理由で反発するといった状況が続いている。例えば、中国共産党政権は新疆ウイグル自治区の少数民族ウイグル人への人権弾圧問題が人権理事会でテーマとならないように加盟国に圧力をかける、といった具合だ。