だが赤穂浪士の指導者であった大石内蔵助(良雄)は、主君の仇討ちよりも、浅野内匠頭の弟である浅野大学(長広)による御家再興を目指していた。筆頭家老だった大石の立場からすれば、それは当然の行動だった。大石はむしろ入念な討ち入り準備を口実に、堀部安兵衛(武庸)ら早期の討ち入りを主張する江戸急進派の暴発を抑えていたのである。

ところが元禄15年7月18日、浅野大学が広島藩浅野宗家にお預けとなり、御家再興は絶望的となる。赤穂藩が再興されない以上、無職となった赤穂浪士たちが武士に戻ることはほぼ不可能である。これにより大石内蔵助は同志を集め、吉良邸討ち入りを決定する。赤穂浪士たちは失うものが何もなくなったからこそ、討ち入りを実行したのである。

では、赤穂浪士はなぜ討ち入りを行ったのか。『忠臣蔵』の影響で一般には「主君への忠義」と考えられているが、同時代史料を見ると、必ずしもそうとも言えない。

元禄14年8月8日、江戸の堀部安兵衛は山科の大石内蔵助に対して書状を送り、決起を促しているが、その中には興味深い一節が見られる。江戸では、身分の上下を問わず、町人たちも、赤穂浪士たちは必ず吉良邸に討ち入りすると噂している、というのだ。

堀部は同年8月19日の書簡でも、御家再興を優先する大石を批判し、浅野内匠頭様の仇を討たなければ、仮に大学様が百万石を与えられたとしても一人前の武士とは認められないだろう、という世間の噂を伝えている。形式的には浅野大学の名誉のために討ち入りすべきと主張しているが、実際には、堀部自身の名誉のためであろう。

堀部は「高田馬場の決闘」で活躍したことで江戸庶民に広く知られていた。剣客として名高い堀部は世間の評判を気にしており、世間が期待する主君の仇討ちを行わなければ、武士としての自分の面目が立たないと考えていたのである。

赤穂浪士の討ち入りには、将来を閉ざされ「無敵の人」となった彼らが、野次馬の無責任で過激な意見に煽られた側面がある。これは現代にも通じる教訓ではないだろうか。