社会全体がこうした不都合で不合理な状況のなかで、いま我々は、

・リスクが殆どない子供を対象に、 ・接種後の死亡が複数確認されていてその副作用の全容がわからない新しいワクチンを、 ・健常児含め全員に無料で投与

しようとしているのだ。

私はとても同意できない。圧倒的にバランスが悪いとしか言いようがない。

これは、医学偏重世界、言い方を変えればエビデンス偏重の世界の弊害と言っていいだろう。

昨今、「エビデンス」という言葉がTVやニュースなどで一般的に使われるようになった。本書でもところどころに登場したが、世間一般でもこの「エビデンス」という言葉が頻繁に飛び交っているのが現状だ。確かにエビデンスは医学にとってとても重要なものであることは間違いない。しかし、エビデンスはその重要性ゆえに過剰に重視されていることも少なくない。

そもそもこの「エビデンス」という言葉は、医学界で用いられてきたEBM(エビデンス・ベイスド・メディスン)のことを言っている。巷では、「エビデンス」=医学的根拠、がなければ価値がないくらいに重用され、エビデンスを使って「論破」する、ような風潮まで生まれている。しかし、このエビデンスという言葉、本来はエビデンスに基づいたMedicine(メディスン=現場の診療)と言う意味であり、エビデンスだけを祀り上げたものではないのである。

EBMの正しい解釈を以下に記す。

「EBMで最も重要な位置づけは、情報収集・情報の批判的吟味にもまして、そのあとの段階、すなわち『その情報を患者に適用する』段階で、その際は『エビデンス・患者の病状と周囲を取り巻く環境・患者の意向と行動・医療者の臨床経験』の4つを考慮すべき」

(出典 「step4:情報の患者への適用」)

たしかに、新型コロナワクチンの効果は95%あるのかもしれない。ただ、その内訳はワクチンを打たなかった人1000人中23人感染、ワクチン打った人1000人中3人感染ということである。つまり1000人中約980人の人は、ワクチンを打とうが打つまいが感染しなかったということなのである。しかも副作用は未知数。これをワクチン接種の現場でどう評価するか?市民側はこれを見てどう判断するか?

そうなのだ。エビデンスはエビデンスとして大事なものではあるのだが、そのエビデンスをどう解釈して現場で患者さんどう適用するか、市民がどう判断するか、この「現場への適用」こそがEBMの真意であり、そこで行われる非常に人間的な判断は、エビデンスとは全く別の次元のものなのである。エビデンス=絶対正義=論破、という図式は、実は医療の現場では全く成り立たないものなのだ。その意味で、医学やエビデンスを絶対と見て偏重しすぎる空気は、今の世の中に大きな弊害をもたらしていると言っていいだろう。

エビデンスは「正解」ではない。

正解のない世界でよりベターなものを各自が模索せよ、という非常に人間的な、根源的な問いを突きつけられているのだ。

冒頭の「子供が家庭で高齢者にうつして高齢者が死んでしまったら・・・」という発言に裏にもこのようなエビデンス偏重(ワクチン効果エビデンスを「正解」と捉えてしまうゆえの誤解)が見え隠れする。

だからこそ今、私達は医学・エビデンスに振り舞わされるのでなく、真に社会に求められている、現場の人々一人ひとりにあった人間的な判断を重視すべきなのである。それがエビデンスを社会の現場に落とし込む=EBMということなのである。

そんな中、少し嬉しいこともあった。先日TV番組の冒頭シーンでビートたけしさんの発言だ。

「単なる風邪だと思えばどうってことない。自殺者2万人(年間)のことを考えれば、重症者も死亡者もたいしたことない。俺みたいなジジイがくたばってるだけなんだから。そういうこという人がいないんだ。だから俺が言ってやる」

私と同じように思っている人たちが意外に多いのかもしれない…ビートたけしさんの発言を聞いてそう思った。

クルクルと変異していく変異株は、「弱毒化」の方向に向かうことが一般的である。つまり今後は、これまでと同じような重装備の感染対策が「最適解」である可能性は、これまでにもまして低くなるのだ。一方で過剰な感染対策が、かえって深く国民の「健康」を傷つけてしまうことは容易に想像できるのだ。

「感染はおさまったけど社会はぶっ壊れた」

ということになりかねない。ビートたけしさんはエビデンスだけが正解ではないことを、それを社会にどう落とし込んでゆくか、正解のない世界でみんながで悩み議論すること、これこそが重要であることを理解されているのだろう。

そう。だからこそ今、国民全員で、全力で、細かなデータやエビデンスの話だけではなく、人間的な人文科学・社会学的な話をするべきなのである。

エビデンスを右手に、人間の生活を左手に、本質的な議論を展開するべきなのだ。

感染対策はどこまでやればみんなが幸せに暮らせるのか?

社会全体の「最適解」とは何なのか?

今、これらのことを真剣に議論すべき時なのだ。

もちろんそこでは、

市民の覚悟が、 政治家の勇気が、 専門家の矜持が、いや 日本人の真価が試されることになる。

自分が所属している組織の理論や利害でなく、本気で国の将来を語り合える環境のなかで、エビデンスを右手に、人間の生活を左手に、国民全員で本質的な議論を展開するべきなのだ。

今私は切にそう願っている。

最後までつたない文章に付き合っていただきまして、誠にありがとうございました。またどこかでお会いできることを願っております。

冬の雨の音を聞きながら、ファミレスにて

森田 洋之

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

【関連記事】
「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
大人の発達障害検査をしに行った時の話
反原発国はオーストリアに続け?
SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
強迫的に縁起をかついではいませんか?