私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生に、下記「始終訓」というのがあります。

一、人の生涯、何事によらず、もうお終いと思うなかれ。未だかって始めらしき始めを持たざるを思うべし。 一、志業(しぎょう)は、その行きづまりを見せずして、一生を終るを真実の心得となす。 一、成功は、一分の霊感と九分の流汗(りゅうかん)に由る。退屈は、死の予告と知るべし。

上記の内「未だかって始めらしき始めを持たざるを思うべし」とは、「もうお終いと思う」その人が、それが始めと勝手に思い込んでいるだけではないかということでしょう。「真の志を得ているのか」「本当の天命を感得したか」――真の自分すら掴んでいないのに、始めだとか終わりだとか言っても仕方がないのです。

そもそも自分自身は分かっているようで中々分からぬものであり、自分自身を知ることは古代より人類共通のテーマであります。自分自身を知ることを、儒教の世界では「自得…じとく:本当の自分、絶対的な自己を掴む」と言い、仏教の世界では「見性…けんしょう:心の奥深くに潜む自身の本来の姿を見極める」と言いますが、自己を得るべく修行することがあらゆることの出発点です。