例えば今年も受験シーズンとなりましたが、中学生や高校生に「君たちはなぜその学校を受験するのか?」と聞くこともできるし、大学生に「Youはなぜ、その会社に行きたいのか?」と議論を吹っ掛けることもできるでしょう。30代や40代の一番脂がのっている方々が「毎日のその仕事は何のためにやっているのでしょうか?一生懸命やっても手抜きしても給与は大して変わりありませんよ」と囁かれたらどうしますか?「君たちはなぜ働くのか?」とも言えるでしょう。

私は若い時に偉くなりたかった、トップに立ちたかった、この一心だったと思います。22歳で入社した会社の新入社員オリエンテーションの際に全員の前で「将来、社長になりたい」と言ったのをよく覚えています。たしか、社長になりたいと言ったのは150名ぐらいの中で2-3人しかいなかったと思います。

その後、金持ちになりたいと思ったこともあります。何故かといえばカナダにきてカナダ人の余力にあふれる人生をみてある程度の懐の厚みがないとあのような精神的余裕が出ないのだ、と思ったのです。ところがそれは間違いでした。カナダ人に見た余力とはなにか、といえば人を家に招いたり、他者に優しくするなどの精神的大盤振る舞いであり、日本では得られなかった経験だったのです。

こう見ると私の人生観はずいぶんチンケなもので偉くなって金持ちになりたいという世俗趣味そのものでありました。ただ、幸いにして私の場合には次の章があったのです。「私の人生の双六は3回ぐらい廻ったから次は若い人にタスキを渡し、人生を成功してもらいたい」と。私が教育分野に高い興味を持っているのはそこに理由があるのです。つまり価値観を高める対象が自分から他人に移ってきているのです。

アメリカの大富豪たち、いや富豪に限らず、ごく一般的な余力ある人生を送っている方々は多額の寄付や社会貢献をすることを厭いません。ビルゲイツ氏でもマークザッカーバーグ氏でも自分の資産の大半を社会貢献に回しています。彼らは皆がそうするから自分もそうするのでしょうか?違うと思います。自分の価値観がより熟成された時点で富の再分配を目指すのです。

権威主義の国ではごく一部の人たちが極端な財を成しますが、彼らが社会還元をしたという話はあまり聞きません。プーチン氏も習近平氏も蓄財していますが、彼らはそれら莫大な資産を自らの権威に箔をつけるための「太い柱」のひとつという発想をするのでしょう。もしも習氏の個人資産が岸田首相と同じだったら習氏が習氏ではいられなくなるのは自明でしょう。

我々は幸いにして民主主義で自由な国で様々な価値観を尊重し合える環境にいます。ならば人生って何だろう、と振り返っても良いのではないでしょうか?

私が最近もう一つ考察を進めているテーマは宗教でその奥深さは探れば探るほどわからなくなります。なぜ宗教か、といえば結局ヒトは一人では生きていけないなら何にすがるのであろうか、というテーマなんですね。司馬遼太郎が「宗教と日本人」という対談集を出しています。読みましたが、正直、難解すぎて時間をおいて再度読まねば理解できない内容です。神道と無宗教の話など非常に奥深いものがあります。そういうテーマに囚われるというのは常に自分を意識しているからなのかもしれません。

朝起きた時、「今日は何をするのだ」と考えることからスタートし、一日が終わった時「今日は何をしたのだ」と振り返るのです。この癖をつけるだけで日々の動きの鮮度は高まります。結局、哲学は自分との闘いなのです。誰もその答えを教えてくれません。自分で気がつかなければ一生わからないまま終わるのです。私も分からないままかもしれません。だけど探す努力はし続けたいのです。

では今日はこのぐらいで。

編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年1月28日の記事より転載させていただきました。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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