- 自由主義の考える『法の支配』とは?
では、その「法の支配」とはなんでしょうか?
こちらの記事にも少し書きました。↓
自由主義は、政府による強制的の行使には厳重な制限が必要であると考えます。
政府に強制力が与えられている理由は、個人を「他人の強制」から守るためですが、同時に個人は「政府の恣意の強制」からも保護されなければなりません。
すべての人が守るべき共通の法を定め、この法を守る限り、各人は自己の能力と機会を自分の意思で利用できます。政府は、その強制力の行使を法の執行に制限するべきなのです。これが「法の支配」です。
政府の恣意による政治は、国会によって満場一致で通過した法律によって認められた場合にも、自由主義者のいう「法の支配」は死滅します。
恣意の強制を認める法は、法の支配の否定であり、個人の自由は失われます。必要なのは、自由のための「法の支配」なのです。
3. 民主主義の正当性それでは、民主主義はどのような理由で正当性をもつのでしょうか? 主に以下の3つの議論があります。
4. 民主主義の限界① 複数の対立する意見のうち、どれか一つを勝たせなくてはならない場合(戦争よりも多数決は、効率的で平和な手段)
② 民主主義は、消極的自由のもっとも重要な安全装置であるという主張
③ 民主主義的制度の存在が、公共問題に関する一般的理解に与える影響のため(ハイエクはこれが最も有力と考えた)
民主主義は、民を教育する唯一の効果的な方法(トクヴィル「アメリカにおける民主政治」) 民主主義は、意見を形成する過程である。 民主主義の利益は、長期的にのみあらわれる。 短期的な成果は、他の政府形態の成果よりも劣ることはありえる(短期的には独裁者の命令の方が、物事を行うのに効果的な場合もありうる)
多数者の意見により政府を導くという概念(民主主義)は、多数者の意見が政治から独立し、自生的な過程から出現するとの信念に基づいています。
多数決により、その時点で人々が何を望んでいるかはわかります。しかし、人々は、政策などの事情にもっと詳しかったならば、違うことを望むかもしれません。
社会は多数者の水準に従うほうが良いという考え方は、文明を発達させた原理とは正反対のものです。文明の前進は、少数者が多数者を納得させるところにあります。
民主主義は、恣意的権力を防止することを意図したものであるのに、多数投票の権威によって新しい恣意的権力を正当化する場合があります。
多数者が自分たちにとって有利な規則を制定し特権を得ることは、明らかに道徳的正当性がありません。
民主主義において、「権利とは、多数がそうと決定するものである」と主張されるときに、まさに民主主義は煽動主義に堕落するのです。
5. 民主主義が目的化した教条的な(原理主義的、極端な)民主主義者教条的な民主主義者は、「多数が望むという事実そのもの」=「善」と考えます。皆が「政治に関わること自体が大事」だと考えるのです。
政府の目的に関しては何も語りません。その時の多数意見が、政府に対する制限になると考えるのです。そして、できるかぎり多くの問題を多数決によって決定するのが望ましいと考えるのです。
6. 自由主義の前提がない場合どういったことが起こるのか?~隷従への道教条的な民主主義者は、特定の目的を達成するために、権力を政府機関に引き渡します。
やがて、恣意の政策を許容するようになり、また社会にとって何が善であるかの決定を専門家に任せるべきだと考えるようになります。
政府機関は、これを支持します。
政府機関は、一度権力を握れば、実際にその権力を行使するのは政府自身であって、国民ではないことを良く知っているのです。
「強制力」が特定の目的のために政府機関に与えられれば、民主主義的な議会は、そのような権力をうまく管理することはできません。そしてそれは、個人的自由(消極的自由)を脅かすものになります。
これらは抽象的でわかりにくいかもしれませんが、具体例としては、ナチスがわかりやすい例です。
7. 民主主義と自由主義の違い自由主義は「消極的自由」の尊重という目的そのものです。
自由主義にとって、「民主主義」は物事を決めるための一時的な手段にすぎません。民主主義は最善の方法かもしれませんが、目的そのものではないのです。
■「自由主義」の反対の言葉は「全体主義」 ある権威主義的政府(独裁、専制)が、自由の原則にもとづいて行動することも理論上は考えられます。
■「民主主義」の反対の言葉は「権威主義的政府」 民主主義で決まった政府は、結果的に全体主義的権力をふりまわすこともあります(ナチスは選挙で民主主義的に選ばれて政権を握りました)
つまり、「民主主義はよいことだから、民主主義が広がれば人類にとって常に利益をもたらす」ということはありえないのです。
自由主義の前提で(個人の消極的自由の尊重を目的として)、民主主義的に政治を行うことが重要で、民主主義自体が目的化すると恐ろしいことになり得る、ということは非常に重要なことだと思います。
最後に、冒頭に紹介した「4匹のオオカミと1羽のニワトリの5匹で多数決をとると、ニワトリが食べられてしまった(ニワトリの権利がないがしろにされた)」という話に戻りますが、例えば、民主主義的なやり方で「富裕層からもっと税金をとろう」「現役世代からもっと社会保険料をとろう」と政策が決められるとき、少数者の権利が踏みにじられていないか、改めて考える必要があると思います。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年3月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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