同情に訴える論証/悲しみに訴える論証

Appeal to pity

ある人物に対する同情を根拠にその人物にとって利益となる言説を肯定する

<説明>

「同情に訴える論証」とは、【同情 pity】を根拠にして、不遇の【弱者 the weak】の利益となる言説を無批判に肯定するものであり、代表的な「感情に訴える論証」です。

人はしばしば不遇の弱者に対して同情し、その弱者が幸福となることを願います。ときに人は同情を動機にして弱者に支援を行います。ジョン・ロールズが主張する【格差原理 difference principle】は、最も不遇な弱者に対して富を再配分する【リベラリズム liberalism】の【正義 justice】の考え方です。

ここで、注意しなければならないのは、同情を根拠として真偽を判断する「同情に訴える論証」は、妥当な論証ではないということです。弱者は第三者である大衆の同情を受ける存在です。「同情に訴える論証」を使うマニピュレーターは、自らを弱者の味方である善の存在、論敵を弱者の敵である悪の存在と認定する無敵のポジショニングをとって、論敵に非論理的な自説を強要します。

実は、この「同情に訴える論証」が社会保障制度の議論において長年にわたって繰り返されてきたことで極端な世代間格差が生じているのが現在の日本です。普通に考えれば、就業中の現役世代は労働により報酬を得ることができる強者であり、リタイアした高齢者世代は労働により報酬を得ることができない弱者であるはずです。

しかしながら、現状はまったく正反対であり、現役世代は生活が困窮するほど極端に高額な社会保障料を支払って高齢者の手厚い年金生活を支えています。これは「同情に訴える論証」を金科玉条にすることで、政治家が大票田である高齢者を年金支給や医療費負担の面で過剰に厚遇してきたことに依ります。

不遇の弱者を適正に救済することはリベラリズムの正義です。しかしながら再配分によって弱者が圧倒的な強者となり強者が圧倒的な弱者となってしまうような社会は、本末転倒な似非リベラリズムに支配された弱肉強食の社会と言えます。富の再配分に「同情は禁物」なのです。

また、「同情に訴える論証」を使うマニピュレーターは、ときに自分自身を不遇の弱者と認定して、論敵あるいは第三者の同情を買うことで、議論を有利に進めようと画策することがあります。「自分は不遇な家庭に生まれた」「自分は生活するのがやっとだ」「自分は重病に冒されている」などがよく用いられるパターンです。

さらに、宗教や政治の世界に存在する【カルト cult】の教祖は、自集団に対する外部からの正当な「批判」を、不当な「攻撃」「迫害」として信者にプロパガンダし、自集団を信者の同情の対象にする「同情に訴える論証」を常套手段とします。「攻撃」「迫害」は、洗脳されている信者には、自分の存在を正当化する魔法の言葉なのです。