新約聖書「マタイによる福音書」第15章には、「口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚す。口に入ってくるものは、みな腹の中に入り、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである」というイエスの聖句が記述されている。
現代人は日々の3回の食事メニューに心を配り、健康への影響について関心を寄せてきている。同時に、女性への蔑視や憎悪感情を刺激する用語を使用しないといった傾向が見られ出している。米国ではその傾向が行き過ぎた面もあるが、口から出る言葉に対して人々は慎重になってきている。
すなわち、前者は「口に入るもの」に対して、後者は「口から出るもの」に対して、人々の認識と内省は進んできているわけだ。その意味で、イエスの上記の聖句に対し、十分とはいえないが、人類の歴史は少しは前進してきている。ちなみに、歴史的発展は最初は外的な世界(口に入るもの)に展開され、その後、内的な世界(口から出てくるもの)へと広がっていく。時には、時間差がある場合もあるし、同時期に生じることもある。
ここでは、後者の「口から出てくるもの」について少し考えてみたい。オーストリアのローマ・カトリック教会の最高指導者シェーンボルン枢機卿は「言葉の残虐性」という表現で、最近、われわれは思いやりを忘れて相手を批判することに専心していることに懸念を表明していた。
口から出てくる言葉はある時は武器以上に相手を傷つける。昔受けた言葉を忘れることが出来ず、生涯、その言葉を脳裏の中で繰り返しながら生きている人がいる。ナイフで刺された場合、時間の経過と共に癒されるが、言葉はそれが残虐的な内容であればあるほど、忘れることが難しく、心の深いところに留まっている。心ない言葉はナイフ以上に人を傷つける残虐性がある。