「天下の木鐸」安岡正篤師はどうか
安岡正篤師は岸田総理の出身派閥「宏池会」の名づけ親でもあり、かつては池田勇人や大平正芳など、歴代宰相の指南役と言われた人物です。それゆえ、宏池会の現状にも忸怩たる思いで見ていることでしょう。
筆者は毎朝、安岡正篤記念館のSNS(facebookやXアカウント@noushikyogaku)を運営しています。生前の正篤師に直接学んだ経験もなく、いわば門前の小僧にも満たない存在ではありますが、それでもこの数年間、毎朝のごとく師のメッセージに触れております。そうした経験から、恐らくはこう諭されるのではないか。今の状況に触れて思うことがあります。
それは「地位に恋々としないこと」です。政権与党の座は何も自民党と公明党の指定席ではありません。それゆえ、椅子にしがみついてはいけない。
もしもこの期に及んで与党の座にあり続けたい大義があるとしたら、政治の空白や停滞を生み出さないためというのは有るでしょう。それでも、やはり永続的な独占はまかりならない。何よりもそうした緊張感がないからこその現在地ではあるまいか。とりわけ領袖はじめ番頭クラスの方々には言葉だけではなく、行動として真摯な猛省を促したいのです。
それ以上に、私たちは何を政治に求めるか政治家のせいばかりではありません。与党よりも野党よりも、むしろ一番の責は筆者も含めた有権者にこそあります。まじめに候補者を選ばないからこそ、現状があるのです。
もしも今の政治に不満があるとしたら、自分が一票を投じたところで何も変わらないと思うのは格好悪いことこの上ありません。何より投票にすら行かない人は、どんなに政治が腐敗したところでとやかくいう資格がないのです。
そこで筆者が思う、わが国の政治を取り戻す唯一の道ですが、恐らくは尾崎も安岡師も同じことを言うでしょう。「信を問う」、これに尽きます。
具体的には選挙を行なうことに他なりませんが、与党も、野党も、そして有権者も。それぞれの責を痛感しながら、より良い政治を求めるより無いでしょう。結果によっては与野党が逆転するかも知れません、政治に空白や停滞も生じることでしょう。
有権者も賢明な判断が出来ず、旧来の人気投票的な選挙結果になるかも知れません。投票率だって向上は見込めないかも知れない。そのツケは当然ながら国民が払うことになりますが、それでも敢えて「信を問う」。それだけの危機的な状況にあるのが、わが国の政治の現在地です。
もしも政治が信頼を回復しなければならないとしたら、それは来年か、それとも再来年か。
かつて流行した「今でしょ!」ではありませんが、可及的すみやかに衆参の総選挙で「これまで」の旧弊政治家と決別し、「これから」の屋台骨を選び直すこと。それに尽きると筆者は愚考します。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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