結局のところ、耐えるということで次第に人物が大きくなって行き人物が出来てくるのだろうと思います。敢えて苦労を自ら求めるような艱難辛苦の道を進まれた結果として、出光さんも人物に成られたのでしょう。我々の思い出として残っていることは、どちらかと言うと苦労した時のものが多いです。苦労は振り返って見て、楽しいとか微笑ましいとか迄は行かなくても、苦を切り抜けたという安堵感、切り抜けられたという一種の自己満足、更にはその過程での自己成長による充足感、等々の気持ちが生まれてくると思います。

「自己の充実を覚えるのは、自分の最も得意としている事柄に対して、全我を没入して三昧の境にある時です。そしてそれは、必ずしも得意のことではなくても、一事に没入すれば、そこにおのずから一種の充実した三昧境を味わうことができるものです」と、明治の知の巨人・森信三先生は言われています。三昧に至るとは、道楽であれ仕事であれ、非常に大事な境地だと思います。

之を『論語』で言えば、「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず…ただ知っているだけの人はそれを好む人に及ばず、ただ好むだけの人はそれを楽しんでいる人に及ばない」(雍也第六の二十)ということです。何事につけ、単に「知る」ところから出発し「好む」段階を経て、漸く「楽しむ」境界(きょうがい)に入って行けるものです。出光さんのように修養という「苦しみ」を「楽しみに思うように変えただけの話」と言えるようになる為には、修養というものを深く知り、好きになるまで耐え続けなければならないのだろうと思います。

編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年12月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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