2/20に発売された『Wedge』3月号のジェンダー平等特集に、「スローガンが氾濫する日本 唱えるからには中身の吟味を」を寄稿しました。先ほどオンライン版にも全文が転載されたので、ご報告を兼ねて補足を。
「ダイバーシティ」(多様性)の語を目にする機会が増えて久しいですが、どれだけの人が内実を把握した上で概念を使っているでしょうか。むしろ、流行の用語や指標さえ入れておけば「クレームは来なそう」といった理由で、中身が空っぽな水戸黄門の印籠のような使い方ばかりが広まってはいないか? を論考では考察しています。
取材の際に出た話題からひとつ切り口を挙げると、平成の半ばまでは、フェミニズムの担い手として家族社会学が大きかった。つまりジェンダー・ギャップを考えるとき、「そもそも日本の男女は、いかなる歴史的な文脈の下に置かれているのか?」という現実の把握から始めたわけです。
日本がなぜこういう社会かを分析する際、なにより注目すべきは「家族(イエ)でしょう」というのは、学問の分野や政治的な党派を超えた共通了解でした。ざっくり言うと1970年代までは、日本の近代化を遅らせた主犯はイエ制度だとする批判が、80年代以降はむしろ、いやイエの慣行は前近代から資本主義を準備したといった再評価が影響力を持ちました。
ところがそうした常識がどうも、いまフェミニズムとかジェンダーとかLGBTとかダイバーシティとかを議論する人の多くに、伝わってないみたいなんですね※1。
むしろ最近目立つのは、いきなり「家族ゼロワールド」のような(その人にとっての)理想の社会を脳内でデザインする。そして、それに比べたら「他の人たちのビジョンは、どれも不徹底な平等に過ぎないぞ!」と勝利宣言するスタイルです。
いわば未来だけあって過去がない、不思議な時空から発信する識者が増えている。藁人形論法だと言われないよう、一例のみ挙げておきましょう。
同性婚を求める人たちが言うように、「愛」に訴えるなら、同性カップルと異性カップルの間の線引きは確かに消える。しかし、「愛」への訴えは、カップルとカップル以外の間での線引きをも消滅させてしまうのだ。