近年トラブル続きの米国のアカデミー賞が、今年も情けない次第になったことはよく知られている。3月10日の授賞式では、助演男優賞と主演女優賞の受賞者(ロバート・ダウニー・Jr とエマ・ストーン)が「アジア系のプレゼンターを無視した」として批判を浴びた。

皮肉なのは運営側の、ダイバーシティの象徴として「多様な人種からなる5名のプレゼンターが候補者を紹介し、オスカー像を授与する」という演出が仇になったことだ。そこまで意識の高さを誇示した後に、白人の受賞者が有色人種をスルーすれば、炎上もするだろう。普通に「1人が1人に渡す」形式でやっていれば、たぶん挨拶してたと思うんだけど。

中央のM. ヨーから受けとるはずが、白人どうしで渡してしまった問題の場面。左端のS. フィールドは気づいて止めたが…シネマトゥデイより

より深刻なのは、国際長編映画賞だ。アウシュビッツを主題とする作品で受賞したジョナサン・グレイザー監督(英国。本人もユダヤ人)が、イスラエルがホロコーストの記憶をガザ侵攻の正統化に利用するのは不正だとスピーチしたことで、ユダヤ系を中心に1000名超の業界人からオープンレターで非難されるに至っている。

ナチス期のドイツを極限として、近代にポグロム(ユダヤ人排斥)を経験した国が多い欧米の社会では、「反ユダヤ主義」は政治的に正しくない態度の筆頭である。正しさの基準を一義的に決められると思い込むポリティカル・コレクトネスが行きついた果ては、「イスラエルへの批判は許さない」という思考停止になってしまった。

何人かの候補者がガザでの停戦を求める旨のバッジをつけて参列するなど、誰も何も考えてないわけじゃない。しかし敵味方の党派性や、発言内容を無視した形式主義で「正しい/正しくない」のレッテルを貼る社会では、見てくれだけの事なかれ主義が本当の議論を押しつぶしてしまう。

いまのところ、思い出して文字にした人があまり多くないようなので、世界がそうなってしまう前、もっと真剣に考える人が多かった時代のアカデミー賞の様子を引用しておこう。なお以下の授賞式が行われたのは1978年の4月3日だが、対象となる作品は前年のものなので、「1977年のアカデミー賞」と記されることもある。