遊びという言葉には、余裕という意味がある。余裕は、悪くいえば、無駄である。仕事の余暇に遊ぶというのは、極めて常識的な考え方である。実際、組織を離れた自主的活動も、多くの場合、仕事の余裕をみて、余暇に行う前提なのであろうし、更には、好きで楽しい余暇の活動にいそしむためには、能率よく仕事を片付けて、余裕を作れということなのであろう。遊ぶ人は余っている人であり、余っている人には遊ぶ時間があるということである。

さて、当然のことだが、遊びは仕事ではないから、無駄である。問題は、この無駄が仕事に転化するかどうか、即ち、創造が起きるかどうかということである。しかし、創造の起きることは、期待にすぎず、普通の仕事のように、成果につながる論理的展開が事前に巧まれてはいないからこそ、余暇の活動は遊びなのである。要は、遊びが成果につながるのは、偶然なのであり、創造は偶然なのである。

偶然が成果につながれば、成果につながったことが巧まれた必然であったかのように、成功の物語が創作される。しかし、それは歴史を都合よく改竄することである。偶然は偶然なのである。偶然は必然にならないのだから、要は、論点は偶然が成果につながる確率なのである。

森本 紀行 HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長 HC公式ウェブサイト:fromHC twitter:nmorimoto_HC facebook:森本 紀行

 

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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