石破茂です。

能登半島震災の避難所の現状を見るにつけ、災害関連死が後を絶たないような状況がひと月も続いている日本国とは何なのかをつくづくと考えさせられます。

プライバシーが最低限確保されるテント、コンテナ型トイレ、キッチンカー、段ボールベッドをイタリア並みに全国民人口の0.5%(約60万人分)確保するとして、どれほどの予算と期間を要するのか、試算すらないのが現況ではないでしょうか。

ネットを見る限り、コンテナ型トイレが1基1000万円程度、キッチンカーが1台500万円程度、段ボールベッドが1台1万円程度かと思われますが(詳しくご存じの方はご教示ください)、10年計画で備蓄を積み重ねていけば相当のことが可能となるはずですし、2031年までの時限官庁である復興庁を発展的に改組する形で「国民保護庁」的な官庁を設置すべきものと考えます。

被災者には人権が十分に保障された支援を求める権利があるのですし、これを提供する義務を負うのは財政力にばらつきのある地方自治体ではなく、国家であるべきです。

地方創生担当大臣在任中の訪米時にアメリカの連邦緊急事態管理庁(FEMA)長官と意見交換をした際、長官が「FEMAの役割は災害時に強大な権限を振るうことではなく、全米のどこで災害が起こっても同じ対応が出来るように環境を整備し、為政者や行政官を教育することである」と語っていたのが極めて印象的でしたが、我が国もこれを範とすべきでしょう。

今回の能登半島地震に関する報道で、防災省(国民保護庁)的な官庁創設の必要性を指摘したものがほとんど皆無に等しいのをとても残念に思っております。

なお、今回の能登半島震災の対応については、濱口和久拓大教授の「政府の初動対応は遅かったのか」(「正論」3月号所収)が優れた論考だと思いました。

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日本はともすれば国民一人一人を保護するのが政府の役割であるとの意識が希薄であるように思います。

第二次大戦において死亡した将兵の約半数が病死・餓死であったとされています(防衛省防衛研究所編・戦史叢書他の資料による)。空襲時に市民に避難することを認めず、消火を義務付けて多くの死傷者を出すに至った「防空法」もそうであったように、国民を犠牲にしても構わないとの発想は一体何処から出てきたのでしょう。