その日本が明治維新を経て急速に西洋列強に追いつく為の手段として、また「文明」国に成り上がる手段として、「民主主義」を取り入れた「自由」と「平等」な社会を目指したのは、時代背景から言えば当然のことだった。

日本のマスコミの走りは、讀賣新聞の社名の起源ともなった、瓦版と言われる回文、戯文を含む「読み売り」。瓦版は藩主の下ネタから天変地異から百姓一揆に至るまで、町民の興味をそそる記事が盛りだくさんで、今の週刊文春などとそのレベルにおいて差はない。今も昔も、一般大衆は下ネタエロネタから特権階級の怪しい噂話からどこそこでエラい天変地異が起きたといったことが大好きだったのだ。

その理由は、日本社会の階級制度にあると考える。要は諦めだ。百姓に産まれた者は死ぬまで百姓であり、侍は侍、町人は町人だ。その階級の中でなら自由に職業選択できたかもしれないが、階級そのものが変わることはない。だからこそ、瓦版で溜飲を下げる。自分より階級が上のものの怪しい噂話を読んで、ザマアミロとほくそ笑んでいた。つまり、その点で今も昔も、それほど人間の本質は変わってはいない。

西洋から「民主主義」の概念が輸入されることによって、なんとなく大衆の中に、「特権階級と対峙するのが民衆である」という意識がより鮮明になり、新聞というメディアがまるで大衆の代弁者であるかのような素地が出来上がってきた。そんな歴史のなんたるか?を言いたいのではなく、新聞を発行している人たちの根底には、自分たちは大衆の言葉を代弁しているという気概も、少しはあると言いたいのだ。

確かに権力が日本社会を支配するようなことになったら、右翼だろうと左翼だろうと関係なく、日本の民主主義は失われていくだろう。

以後、

・マスコミの役割 ・マスコミの弊害

続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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