つまり、なにが「昭和っぽい」「The 昭和」なのかについて、みんなが共通の理解を持っていて、それを茶化すときにも「オリジナル」として参照はしていた。そして「踏まえた上で」貶す、っていうのは、たとえ批判が目的であっても、最低限のリスペクトにはなるんですよね。
そうしたあり方が、平成に崩れていき、いまはみんなが共通に参照できる基準や出発点がどこにも存在しない。むしろ「まだよく知らないけど好き」「ちらっと見てムカついた」みたいな小さな感情を、ネットで検索して同じ気持ちの人どうしが繋がることで増幅させ、煽ったり叩いたりする。なので、もし違う人とぶつかったら、単なる炎上・乱闘にしかならない。
結果として、一過性のムーブメントには毎日満ちているんだけど、全体として「なにが、この時代の本質なんだ?」みたいなものを、誰も捕まえられなくなっている。それが、平成を通じて生まれ(てしまっ)た令和の社会なんでしょう。
そんな世の中ではもちろん、「古典」という概念があったこと自体が忘れられてゆく……という形で、奇しくも『平成史』のテーマと最新刊とが、ジョイントする一日になりました。貴重な体験をありがとうございました!
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年2月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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