たとえると普段から歯ごたえのある玄米食を食べていたのを止めて咀嚼する力が衰えることで、柔らかいハンバーグやおかゆばかりを求めてますます退化するようなものである。

文章を読む行為は能動的な情報獲得プロセスであるため、読み取る力は完全に自分の読解力に依存する。そのため、読解力が衰えると表面的な言葉しか理解することができなくなり、相手の言わんとすることをミスリードしてしまう。

毎日活字に触れて咀嚼し続け、時には自分が間違った解釈をしている経験から改善を意識することで読解力を高めることができる。それをせず、ひたすらわかりやすく編集された動画ばかりでビジュアルと音声という松葉杖を使った歩行に浸ると読解力は地に落ちるのだ。

語彙力、表現力も低下

そして語彙力や表現力も著しく低下する。

音声や動画は「音」である。音を使ったコミュニケーションでは似たような音は使われず、誤解が起きないようにかなり語彙表現を狭めた会話が前提となる。つまり、口語は文語より使用語彙や表現の幅が狭まるのが普通だ。

たとえば「悔しい」という表現をする時、文語では口語にはない豊富なバリエーションがある。滂沱の涙、忸怩たる思い、慟哭といったものが代表だろう。日常会話や動画メディアではこうした表現に触れることはほとんどなく、普段からほとんど活字に触れない人にとってこうした文語表現の読み方や意味、ニュアンスの違いはわからないはずだ。

活字から遠ざかることでこうした語彙力や表現力もひたすら低下していく。まず、アウトプットで出せなくなり、次にインプットの際に意味を咀嚼できなくなる。語彙の世界に終わりはなく、生きている間は経験を積み重ねるほど語彙力は増え続けるので、年相応に語彙を知らなければ恥をかくことになってしまう。

いや、それだけならまだいい。加齢に伴い意欲が減退することで、過去自分が見知った知識の範囲内の世界しか観測できなくなるので、時代の変化とともに置いていかれることになるのだ。