このために倫子は正妻、明子は第二夫人的に扱われ、子どもたちの扱いもだいぶ差がつけられた。道長としては、兄弟で争わないように手を打ったといえる。

そんなこともあって、尊子も天皇や東宮の元に入内するのでなく、村上天皇の第七子である源師房の妻とされたので、。道長の娘で皇族に嫁がなかったのは尊子だけで、周囲は怒ったという。明子の周囲はおおいに不満をもったらしい。

師房は、頼通や敦康親王(藤原定子の子)の夫人たちの弟である。道長は師房を高く評価し、賴通に男子がないままだったら、師房を摂関に抜擢してもいいとすら考えていたという。

おそらく、この師房の兄弟は、いずれも魅力的な人物だったようだ。姉の隆姫女王(995-1087)は、藤原頼通と結婚して深く愛され、子がないのに賴通は内親王などほかの妻をめとることを拒否した。

次姉は敦康親王の妃となり、これも深く愛されたのは『光る君へ』でも描かれていたとおりである。その次の姉は、伊勢斎宮だったが、だいぶ年齢を重ねてから、頼通の同母弟である教通の継室となった。

師房と尊子は、3男3女を得て、源俊房は左大臣、顕房は右大臣となった。娘2人は頼通の子に嫁ぎ、摂関家にDNAを残した。尊子は85歳、夫の師房も70歳まで存命し、子孫は村上源氏として、源平時代には御堂流と競い、名門として現代にまで及んでいる。久我家が嫡流だが、中院家、堀川家、土御門家、久世家、東久世家、植松家、六条家、梅渓家、愛宕家、千種家、岩倉家、北畠家等を出した。