ただ、私が長年、街ブラをする修学旅行生を見たり、時として海外に住む人として話をする機会を持ったりする中で、海外修学旅行の意味はあまりないと思います。学校が魅力的に見えるプログラムとしてやっている一方、学校の先生は生徒の安全確保のために極めて厳しい行動制限をしているのでまるで動物園で檻の中にいる外国人を見ているようなものなのです。

私は最近、家の周りに10数軒ある韓国居酒屋の4-5軒の店に順番に行くのですが、店員の方はワーキングホリディの方を含め結構会話ができる人が多いのです。しかも私の30数年の経験値からして韓国人の英語力は明らかに上昇しています。

その背景には韓国が日本と中国の間に挟まれ、経済的に国内だけでは自立できないので海外にその生き残りの道を見出したという歴史でしょう。それは韓国の政策でもありました。それこそかつてはプロゴルファーから中東のプラントで働く韓国人まで世界に出て稼いでいたのです。その逞しさは日本でも戦前ぐらいまではあったのでしょうが、今は見る影もありません。

「日本人に英語を期待するのは無理なのか?」という問いに私は現時点では「無理」とお答えします。なぜなら英語を駆使して一生懸命海外に出て稼がねばならないということは少子高齢化が進む日本においてその可能性はほぼないからです。つまり国内で労働人口が不足するのでなんで海外にわざわざ行くのか、という話になるのです。

また最近はコマーシャルでもやっているように「翻訳機」が発達していて自国語をしゃべると相手の言語に即翻訳して音で発してくれます。とすれば相手とのコミュニケーションにおいて単純なやり取りであればあたかも通訳がいるような環境になっているのです。

ですが、あくまでもこれは「単純なやり取り」であり、一般会話や言葉の裏まで表現するのは現時点では難しいでしょう。会議や商談で使えるかといえば私は疑問です。翻訳機を介して友人ができるか、といえばほぼできないと断言します。人間関係は同じ土俵に乗った時に生まれるものであり、会話という土俵に乗れないのであれば相手の方と友人になれるわけがないのです。