こうした物語を素直に読めばこういうことだろう。このころ、すでに瀬戸内海を介した交易は盛んだったから日向の国にも他国の商人が現われたりしたし、あるいは他国へ旅にいった経験を持つものも多かった。そんななかで、この国に住む野心的な中年男が東の国々の豊かさを聞いて一旗あげようという気になったのだ。

あるいは、なにか故郷に住みづらくなる事情があったのかもしれない。男は、少数の仲間と一緒に旅に出た。このときに、どのくらいの人数だったかについて日本書紀は何も語っていないが、その後の記述のなかで登場するのは総勢6名にすぎない。

すなわち、神武天皇自身、息子の手研耳命と3人の兄たち、中臣氏の祖先である天種子命である。このうち、兄弟たちは途中で死に、手研耳命は大和に無事に入るが、神武天皇の死後の跡目争いのなかで、神武天皇が大和で再婚した女性との間に生まれた異母弟たちに暗殺される。この旅に女性やほかの家族も一緒だったとは書いていないから、わずかな人数が一艚の小舟で船出したということであって、皇軍が大部隊で東征というようなものでない。

吉備の国では、気に入ってくれる土着の有力者がいたのか、しばらくそこにとどまった。そこで力を蓄えて河内国に上陸するわけだが、少人数で海岸部の村でも襲って住み着こうとしたのではないだろうか。

ところが、大和平野南部から河内にかけて勢力を伸ばしていた長髄彦に追われて兄弟も殺され、いったん南へ逃れるが、辛抱強く仲間を増やして長髄彦を滅ぼし、大和盆地の南西部にいくばくかの領地を獲得するまでになったと読むべきであろう。

ここで特に注目しなければならないのは、日向から吉備まで、神武天皇がこれらの土地を領有していたらしき記述がないことである。つまり彼は日向の領主でもなかったし、あるいは、支配階級に属していたのですらなかったかもしれない。

だから「東征の根拠地になったのだから日向でなく筑紫のような先進地域だろう」とか、「景行天皇が日向へ遠征したとき墓参りをしていないのは奇異」などといってもはじまらない。もともと、日向にも筑紫にも取り戻すべき領地もなければ、どこが先祖の墓かもよくわからなかったということである。

おそらく伝承されていたのは、「先祖は日向から来たらしい」という程度のことでなかったか。そして、この類の言い伝えは、わりあい正しいのだ。「うちの初代は信濃の国のどこそこからやってきた」などという旧家の家伝を過去帳などから調べたら本当だったといった話はよく聞く。そんな場合、現代にいたるまでの途中の先祖のことは忘れてしまっても、その土地にやってきた最初の人のことは正確に伝わることが多いので、神武天皇のあと何代かの記憶があやふやでも特段あやしむべき話でない。

また、天皇が大和で即位した時点では、大和のそのまた一部のみを勢力圏としていたとしか読めない。つまり、日向出身の小人数の野心的な武装集団が吉備で力を蓄え、すでに多くのクニが成立していた大和の一部の征服に成功したということである。

当然のことながら、この時点では日本列島は群雄割拠だっただろうし、もっと大きな国もあったに違いない。ただ、のちに大和朝廷、そして、日本国家の大王となる天皇家が初めて領地を得てクニらしきものを創成したのが橿原の地だといっているだけのことである。

いってみれば、大企業の創業者が町工場を起こした日のようなものなのだが、この時点では日本人のごく一部しかこのクニの「国民」でなかったのだから、「日本国家成立の日」というわけではない。その意味で、この日が天皇を憲法で象徴とする日本国家にとって祝うべき日であることに間違いはないが、建国記念日という名にふさわしいかは疑問である。

ここは、皇国史観的な粉飾から離れて、素直に皇室のご先祖についての伝説だと割り切って、メイフラワー号がマサチューセッツに上陸したピルグリム・ファーザーズ・デイやコロンブスがアメリカ大陸を発見したコロンバス・デイのようにお祝いをするというのがよいのではないか。

※ この記事は2000年刊行の角川書店「日本の国と憲法 第三の選択」の内容をほぼそのまま転載しています。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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