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2月11日は「建国記念の日」である。「建国記念日」ではない。制定のときのいろいんな経緯でそうなった。

しかしいずれにせよ、神武天皇が橿原神宮で即位したとされている日を建国記念日としながら、歴史の教科書ではほとんど何も教えないという矛盾した国のあり方が現実にある。

また、海外の大使館などで現地の有力者や在留邦人、それに諸外国の外交官などを招いて華やかな招宴を行う「ナショナル・デイ」を日本の外務省は天皇誕生日としている。これも、本来なら建国記念日であるべきなのだが、政府も腰が引けているのである。

そして天皇誕生日については、御代ごとに祝日が変わるという面倒がある。しかも、今上天皇の誕生日が12月23日というクリスマス直前で、お祝いの行事をするのに不便だという問題もある。

それに、明治天皇の誕生日は文化の日、昭和天皇の誕生日は緑の日として残したが、大正天皇の誕生日も上皇陛下の誕生日も祝日でも何でもない。

そこで、ひとつの考えとして、2月11日を「建国記念日」でなく「皇室の日」にし、御代ごとに変わる天皇誕生日を止めて、こちらを海外の大使館などでのナショナル・デイにするというのはどうだろうか。英国でも本当の誕生日とは関係なく6月第一ないし第二土曜日が常に女王(国王)誕生日とされている。

そもそも、「日本書紀」に書かれている歴史が全部真実だとしても、神武天皇即位の日を建国記念日にというのは無理がある。戦前は皇国史観による日本書紀の解釈から、大和国の橿原で即位した神武天皇の時代以来、万世一系の天皇家によって治められてきたというように理解されてきた。

だが、こうした神武天皇像は近代日本国家による捏造に近い。「日本書紀」を率直に読めば、まったくちがう古代の英雄の姿が生き生きと浮かび上がってくる。

そこでは、戦前の日本人がかたく信じ、逆に戦後の歴史家が必死になって突き崩そうとしてきた万世一系論をめぐる風景とまったくちがうものがみえてくる。ここでは、まず、日本書紀を読んで、神話的な部分は無視して、政治外交史としてのこの記録に何が書いてあるかを整理してみよう。

神武天皇と呼ばれる謎の人物は、日向の国(宮崎県)に生まれた。それが、45歳のとき、「東の方に青い山に囲まれた良い土地(大和のこと)があるらしい。この国の中心ではないかと思うので、そこへ都をつくろう」と思い立って出奔し、途中、吉備に何年か留まりそこで軍備を整えた。

さらに、河内から大和へ入ろうとしたが、土着勢力の長髄彦との闘いに敗れ、兄弟も戦死するなどしたので、南を迂回することととし、熊野方面から大和へ攻め込んだ。このとき、大和の土着勢力のなかにも味方となるものがあり、長髄彦を倒すことに成功し、橿原でこの地の王として即位した。