「百折不撓」の由来
ここでは「百折不撓」の由来を解説します。
由来となった『橋大尉碑』
「百折不撓」は諦めずに挑戦し続けることを意味します。
では、この言葉はどこから来たのでしょうか。
由来は蔡邕という人物が残した中国の書物『橋大尉碑』あります。
中国の後漢時代、橋玄という真面目な政治家がいました。
彼は特定の人物の悪事を暴くなど熱心な仕事で知られる政治家でした。
しかし、悪事を暴いていたこともあり悪人からは恨まれていました。
ある日、橋玄に恨みを持っていた強盗が彼の息子を誘拐してしまいます。
すぐに強盗は包囲されたものの橋玄の息子に危険が及ぶ可能性があるということで無理な突入はできずにいました。
しかし、橋玄は息子の命よりも国の治安維持を優先して突撃を命令し、結果として彼の息子は命を落としてしまったのだとか。
この話を受けた蔡邕は「折れない心を持ち、国の大事に臨んでも動じなかった」という意味で「百折不撓、大節に臨みて奪う可からざるの風有り」という言葉を碑文に記しました。
転じて、苦境にもめげず挑戦し続けることを「百折不撓」と表現するようになったとされています。
『橋玄』とはどんな人物?
橋玄は後漢の時代に活躍した政治家です。
彼は真面目な政治家で若くして県の功曹となった人物としても知られます。
後漢の官僚である周景が梁国に至った際には、陳国の要人である羊昌の罪を暴くために徹底的に取り調べさせてくれるよう申し出たことでも知られています。
周景は橋玄の決意を受けて従事に任じると陳国へ派遣。
その後、羊昌の賓客を収監して贈収賄罪の罪状で取り調べました。
最終的には羊昌を檻車で洛陽へ送り、一躍世に名を知らしめたとされています。