ところで、そのような世界の風潮の中で、日本はどうかと言うと、むしろその反対である。 つまり国民の国家意識というものがきわめてうすいように思われる。あるいは世界で一番うすいといってもいいのではないかとさえ考えられる。

国家意識というものは、平たくいえば自分の国を意識する心であり、大事にする心であろう。自分の家を大事にする。自分の町を大事にする。それと同じように自分の国を大切にするということである。もちろんそのことにとらわれたりそれが過度になったりすると、先に述べたように自国中心主義となり、国際的な摩擦や紛争を呼ぶことにもなって、かえって弊害をもたらすことになる。それが今日の世界の姿である。また戦前にの日本には多分にそういう傾向があったと思う。そしてその結果が、ああした悲惨な戦争をもたらしたわけで、だから誤った国家意識、過度の国家意識というものを持つことはかえって危険だといえよう。

けれども、だからといって正しい適度の国家意識までなくしてしまっていいものかどうか。 それでは、無国籍者の集まりのようなもので、きわめて頼りない力よわいものになってしまうだろう。

(中略)

内憂外患ともいうべきこの難局にあたって、正しい国家意識を養い高めていくことが極めて重要だと思う。

そういうことをしていくためにも、やはり何と言っても大切なのは政治の指導性ということではないか。政治が力づよい指導性をもって、国民の間に正しい国家意識を培養していくことが必要だと思う。そして、政治に指導性がないのは、あとでのべるように、国家100年の計を生み出すような方針、すなわち 哲理がないからではなかろうか。

(中略)

考えてみれば、戦後30年近くの間を通じて、わが国では国がそういう指導性を持つどころか、むしろ 国民に迎合し、国民を甘やかすような傾向がつよかった。民主主義のはきちがえは、何も国民の方にだけあったのではない政治の側にもそれがあったわけである。

(中略)

だから 政府や 政党はいろいろいいことずくめの公約をすると同時に、あるいはその前に、まずそのことをはっきりと国民にいって、国民をいわば教育すべきであった。

(中略)

ここで思い出されるのが、かってのアメリカのケネディ大統領が、その就任演説でいった言葉である。「国民諸君!諸君はいま、諸君の国家が諸君に対して何をしてくれるかを問うべき時ではない。諸君が国家に対して何をなすべきかを問わねばならぬ時なのだ」

(中略)

政府といわず、政党といわず、いまこそ国民を咤激励するような気概を持って真実を力づよく訴えてほしいと思う。今政治に必要なのはそうしたきびしさである。

そのような訴えがなぜこれまではわが国においてなされなかったといえば、それは結局政治が哲理を欠いていたからではないだろうか。日本の国をどのような方向に進めていくかという、いわゆる国家経営の哲理、方針が政治に欠けていた。したがって、何事をなすについても、一つの確固たる方針に基づいてなされるというのではなく、その場その場をしのいでいくといったかたちで、政治がなされる傾向が強かったように思う。

(中略)

国家に 基本の哲理がないということは、個人でいえば確固たる人生観を持たないということに通じる。会社や商店であれば、経営理念、経営方針を持たないということにもなろう。

経営の神様の処方箋

松下氏は「崩れゆく日本」「第2部 日本を救う具体策の一例」の「2.物価安定と経済大発展への道」で持論でもあるダム経営論を展開する。

河川の水を流しっきりにせずに、ダムをつくってこれを蓄え、必要に応じて放流することにより、水を最大限有効に使い、灌漑とか発電などの有用な事業を行うことができる。

そういったダムの考え方を、国家経営といわず企業経営といわず、個人の人生経営といわず、あらゆる面に導入することがきわめて大切だと思う。そこから安定した人生、安定した企業経営、安定した国家経営が生まれてくるだろう。

このダム経営については、京セラ創業者の稲盛和夫氏も感銘を受け、自身の経営12カ条に掲げている(「稲盛和夫の経営12カ条 #3 稲盛和夫氏『思いを抱くことがなぜ大事なのか』」)。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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