加えて、二次史料ではあるが、『慶長年中卜斎記』でも七将が三成の処罰を求めて家康に「訴訟」を行った、と記されている。

したがって水野・白峰氏の主張にも一定の理があるが、単なる「訴訟騒動」と評価するのはどうだろうか。この時代の「訴訟」は必ずしも平和的なものではない。以下に一例を挙げよう。

永禄八年(1565)、室町幕府13代将軍足利義輝が三好義継らの軍勢に襲撃され、命を落とした(永禄の変)。この政変を叙述した軍記物『永禄記』は、三好勢が「公方様に対して訴えたいことがある」と言って「御所巻」に及んだ、と記す。「御所巻」とは、将軍に対する異議申し立てのために将軍御所を軍勢で包囲する示威行為のことである。一次史料である(永禄八年)六月十六日直江正綱付山崎吉家・朝倉景連連署書状(「上杉家文書」)にも、「三好左京大夫(義継)・松永右衛門(久通、久秀の嫡男)」が「訴訟」と称して将軍御所に押し寄せたと書かれている。

近年の研究では、三好勢は将軍義輝の殺害までは考えていなかったと考えられている。せいぜい義輝を引退させる程度の計画だったと思われる。しかしながら義輝側が強く反発した結果、軍事衝突となり、義輝と近臣たちが戦死する(『言継卿記』など)という想定外、前代未聞の事態が発生したのである。

このように、武力衝突に発展しかねない軍事行動を伴う脅迫的な要求も、当時は「訴訟」と表現された。七将の「訴訟」も、永禄の変と同様に、軍勢を動員して行ったものと考えられる。

実際、一次史料である『言経卿記』慶長四年閏三月十日条には、石田三成の隠居によって「京・伏見方々悦喜了」になったと記されている。『言経卿記』同年同月七日条などに見えるように、石田三成と七将の対立によって京・伏見は「騒動」になっていた。「騒動」の中味は不明だが、おそらく人々は合戦になるかもしれないと心配し、警備を固めたり避難したりしたのだろう。

ところが三成の隠居という形で事件は落着し、戦闘は回避された。だから京・伏見の人々は喜んだのである。逆に言えば、永禄の変のような合戦になる確率は低くないと当時の人々は考えていたのだ。

要するに、この時代においては、「襲撃事件」と「訴訟騒動」の区別は明確ではない。一次史料の記述が断片的なため、事件の詳細な経緯は判然としないが、三成が大坂から伏見に逃れたことで襲撃に失敗した七将が、軍事力を背景に三成の処分を要求する訴訟に切り替えたという状況も想定される。永禄の変がそうであったように、訴訟のつもりで軍勢を動員したが、結果的に襲撃事件になってしまう危険性もあった。

三成と七将が一触即発の関係にあり、合戦になる恐れがあったことを考慮すると、「訴訟騒動」と表現してしまうと、かえって事件の本質を見失い、過小評価することになりかねない。一般読者はどうしても現代的な「訴訟」のイメージに引きずられて、七将が平和的な行動をとったかのように誤解してしまうからだ。歴史的事件の呼称の変更には慎重であるべきだろう。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

【関連記事】
「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
大人の発達障害検査をしに行った時の話
反原発国はオーストリアに続け?
SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
強迫的に縁起をかついではいませんか?