第40回「天下人家康」よりNHK「家康ギャラリー」

先日の『どうする家康』第40回の放送で、七将襲撃事件が描かれた。

一般に七将襲撃事件とは、慶長四年(1599)閏三月、加藤清正・福島正則ら豊臣恩顧の武断派諸将7人(顔ぶれは史料によって異なる)が、豊臣政権五奉行の一人である石田三成を討とうとしたところ、政権最大の実力者である徳川家康が仲裁し、三成の佐和山引退という形で決着したという事件とされる。

家康批判の急先鋒であった三成が失脚したことで、家康による独裁が進み、豊臣政権内において反家康勢力の警戒心が高まった。これが三成らの挙兵につながっていくので、七将襲撃事件は関ヶ原合戦の前提と言える重要な事件である。

しかし最近、七将に石田三成を討ち取る意思はなく、「襲撃事件」という呼称は正しくない、という説が提唱された。

水野伍貴氏は「当時の人物が記した記録から三成襲撃事件をみた場合、襲撃・暗殺計画といった性格ではなく、七将が家康に三成の制裁(切腹)を訴えたというものとなる。(中略)従って、この事件を「三成襲撃事件」と呼ぶのは不適切と思われる」と指摘している(『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』日本史史料研究会、2016年)。

さらに白峰旬氏は水野説を踏まえて、「これまで通説で豊臣七将襲撃事件とされてきた事案も実際には「襲撃事件」ではなく、単なる「訴訟騒動」であった」と主張している(「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である」『史学論叢』48、2018年)。

確かに水野・白峰氏が明らかにしたように、七将が石田三成を討ち殺そうとしたという記述は、もっぱら『関原始末記』『慶長軍記』『関原軍記大成』など江戸時代の軍記類に見え、一次史料では確認できない。たとえば一次史料である『北野社家日記』閏三月七日条では、福島正則らの大名衆が「申合」を行い、三成に腹を切らせようと決定したという噂があると記されており、襲撃の雰囲気はない。

そして一次史料である『義演准后日記』慶長四年閏三月十日条には「石田治部少輔江州サヲ山ノ城ヘ隠居。大名十人トヤラン申合訴訟云々。内府〈家康〉異見云々。」とある。10人ほどの大名が三成の処分を求めて「訴訟」を行い、家康の裁定によって、三成の佐和山隠居が決まったというのである。