政治
2024/11/22
ボスニアのスレブレニツァ虐殺事件、その痛みは消えず
緑溢れる木々や山並みを窓から眺めるうちに時間が過ぎ、スレブレニツァに設置された虐殺記念碑と墓地に到着した。
墓地の入り口の石碑には8700余りの遺体が収められていると書かれてあった。どこまでも続く白い墓標(トップの写真)。その1つ1つには犠牲者の名前と年齢が書かれている。まだ墓標ができておらず、土をかぶせただけの場所もところどころにあった。「今でも捜索が続いているから、誰も遺体の総数は分からない」とハスターさん。
かつて国連軍が駐屯場所として使っていた工場跡にも行ってみた。中は薄暗く、自然光が入って来るだけだ。当時の国連軍のトラックが1台、置かれていた。
1995年7月当時、スレブレニツァ地域は国連の非武装地帯=安全地帯と認定され、軽武装のオランダ軍部隊600人が警備に当たっていた。7月11日、セルビア人勢力がスレブレニツァを占領する。ボシュニャク人市民らの避難先の1つとなったのがポトチャリにあるオランダ軍部隊の基地だった。戦闘激化に伴い、オランダ軍は降伏。数日間にわたって、スレブレニツァ近辺で数千人規模のボシュニャク人たちが殺害された。
基地があった工場内にはいくつかのパネルが置かれており、その一つには「UN=United Nothing(国連=何もしない集まり)」と書かれた落書きがあった。
英国大使館による特別展示では、攻撃から逃げようと山中を歩いたボシュニャク人たちの靴が並べられたコーナーがあった。第2次大戦中、独ナチスが設置したアウシュビッツ強制収容所に置かれているユダヤ市民が残した何足もの靴を想起させた。
工場跡を出て、資料館に入る。これまでの経緯についての資料や展示が複数の小部屋に分かれて置かれていた。平日だったが、どの部屋にもたくさんの訪問客がいた。資料を見る前に、まずは短編映画が上映された。セルビア軍に処刑されるボシュニャク人の動画が映しだされると、会場内のあちこちからすすり泣きが聞こえた。30年近く前の出来事でも、未だ生々しい傷と記憶が残っているのである。
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