1. 「日常の隙間にあるブラック企業」が日本で果たしている役割とは?

    要するに何が言いたいかというと、さっきも書いたけど本当に日本において「ブラック企業」は、インテリで中流以上の育ちの人には想像できないぐらい、

    『物凄く身近なところにある』

    ってことなんですよ。日常に違和感なく溶け込んでいる。

    で、別に擁護するつもりは全然ないんですが、「そんな会社潰してしまえ!」といくらSNSで叫んでも潰れないのは、そこにいる人達にも生活があるから、という話ではあるんですよね。

    個人的な感想としてですが、多分欧米などの諸外国では、こういう会社は、都心のインテリジェントビルに隠れて一緒に存在してる感じになってない可能性はあるなと思います。

    もっと「別の場所」にあるし、「健全な企業としての偽装」みたいなこともあまりしてない事が多いのかも。

    日本に多くある「ブラック企業」の存在は、ある意味で、他の国なら単なる野放しの犯罪とかカオスとして放置されてしまうものを、何らかの「体育会系」のウェットな繋がりによって、「世間様へのご迷惑はかけない」という形で有機的につなぎとめている存在みたいなところがあるんですよね。

    ただし、諸外国における同種の人々のように「世間様全体」への迷惑はかけないけど、例えばハズレを引いた顧客とかに対しては被害を押し付けている側面はある…みたいなことですね。

    物凄く「良いように」言うとすれば、欧米的に理屈で運営されている社会だと純粋な「悪」扱いされて「マトモな範囲」から排除されてしまうようなタイプの人が、山間部の樹木の根っこが土壌を掴まえてくれているから水害に強いみたいなメカニズムによって「普通の社会」の中で居場所を作れている…みたいな要素があるなと。

    それが日本社会の見かけ上の安定感とか犯罪の少なさとか、そういう部分に繋がっている構造は疑いなくあると私は考えています。(それでいいかどうかは別問題で、嫌いな人は嫌いだろうし、欧米型に”悪”は”悪”として排除されてしまう世界の方が好きな人もいるでしょうが)

    要するに、ある種の「エリート的でない出自の存在が”一人前”に頑張って生きていく感覚を得られる雇用の受け皿」みたいになってる側面があって、恵まれた育ちの人がただ「あんな奴ら消えてしまえばいい」と言っているだけでは消えてなくなったりしないのがブラック企業問題の難しいところなんですね。

    「じゃあそういうお前がお前の責任で俺たちの働く場所作ってくれんの?」

    …と言われてしまうとちょっと答えに窮してしまう部分はある。

    「あんな奴ら」を見下して「自分は違う」と思えている事自体が、自分自身が恵まれた育ちである特権性に無自覚だからこそ言えている事にすぎない・・・という側面はどうしてもある。

    だから、日本社会が本当にああいう「ブラック企業」を克服していきたいとなると、単に欧米的な理屈を押し込んで「お前たちは間違っている」というだけでは変わっていけないリアルな問題がある。

    そこをどうやって変えていけばいいのか? について考察するのが今回記事の目的というわけですね。

    3. 「ガッツはあるが知力ゼロ」では勝てない時代になってヤバさが露呈してきた感がある

    とはいえ、このままじゃいけないし、その「このままじゃいけない度合い」がどんどん高まってきている時期ではあるなと感じています。

    というのも、「根性だけでなんとかなる」部分が経済的にどんどん縮小してるところが理由としてあるんですね。

    例えばビッグモーターみたいな中古車販売業でも、今はメチャクチャ豊富な情報がネットで取れるじゃないですか。

    中古車一台買うにあたっての、色んなオプションとか保証とかコーティングがどうとか、それの適正な相場がどれくらいで、この車種のこの型番にはこういう不具合が出やすく、それは走行何万キロから要注意で、その最善の対策はコレでその費用の目安はこれです…みたいなのがネット検索したらすぐいくらでも出てくる。

    こういう「情報環境」がもう10年前とは全然違うんですよね。

    しかも文章読むの苦手なタイプでも動画でリッチに物凄く詳細な情報が日々アップされていっている。

    なんなら営業マンの話を聞きながらスマホでその場で隠れて検索して裏取りしたりできる。場合によったらネットの情報から営業マンに逆提案できたりもする。

    だから「営業マンのトークで売れる」みたいな要素が年々縮小しているところがある。

    根性系営業会社でありがちな形式化されたセールストークのロールプレイをしてそれを情熱で押し込むみたいな方式がどんどん「誰が見ても嘘くさい」ものになってきている。

    そうじゃなくて、ちゃんと話を聞いて適切に顧客の状況を判断して、幅広い情報を取捨選択して整理して自社で提供できる部分をフェアに切り出して提示するみたいなことが営業マンの仕事に変わってきている。

    こういう状況下で勝つには、「営業マンの個人プレー」的な要素を徐々に廃していって、「経営」の部分で「勝てる理由」を構造的に作ってしまわないといけない時代になってきている。

    「ガッツ」と「知力」は中小企業の経営でどっちも必要ですけど、「ガッツはめっちゃあるけど知力ゼロ」みたいな経営のあり方がかなり苦しくなってきている変化が、あらゆる業種で起きているところがある。

    そういう営業系カルチャーの会社の上司は、昔はとにかく「頑張れば数字が上がった」という成功体験があるので、社員が成績あげられないととにかくハッパをかける…みたいな事になりがちなんですよね。

    でも、状況変化で、「構造的な勝ち筋」が作れていない会社ではいくら現場が頑張ってもなかなか勝てない環境に変わってきているので、その中で徹底的に上から詰められると、もう当然不正に走るしか無い・・・みたいな感じになってしまう。

    ビッグモーターも集団的に不正に走り出したのはここ5−6年だ…という話もありますし、それはその時期まで曲がりなりにも成り立っていた「根性系営業会社カルチャー」自体に限界が来ている中で、それでも上からプレッシャーをかけられ続けた結果起きたことなのだと私は考えています。

    では、どうすればいいのか?

    4. ある程度の「知性」の仕切りが必要になってきている。

    実際に、クライアントの中小企業で10年で150万円ほど給与を引き上げられた「転換」を間近で体感してみて思うポイントは、中小企業の転換には

    知性とガッツの両輪

    …が当然のように必要だな、という当たり前のことを感じます(笑)

    「平均給与」っていうのはなかなか簡単には上げられないので、「皆で頑張って乗り越えようぜ!」というだけではちょっと無理がある。

    ビジネスモデルをある程度知的に理解した上で、細かいコストダウンとか、細かいアップセルとか、ついでに売れるサブスク型の収入とかを積み上げていったり、ライバル社が片手間にやっているその業種で重要なコアの業務を専門部隊を育成して徹底的に掘り下げさせるとか、なんかそういう部分は

    ぶっちゃけある程度知的な人が音頭を取る必要

    …はある。

    これは必ずしも”学歴”とは連動しないので、例え中卒だろうと頭いい人がいれば全然できることではあります。

    ただなんか、いわゆる「全員野球」的にただ単に現場の工夫を吸い上げるだけだと、”お客様のために”という美名のもとに、かなり顧客側としても別にどうでもいいようなことで「過剰に皆で苦労する自己満足」みたいになっちゃいがちなんですよね日本では。

    だから、一つ一つの施策に対して、ある程度「費用対効果」「苦労対効果」的な視点からメタに取捨選択しつつ、工夫を引き出していくみたいな事が必要になる。

    そういう意味で、ある程度「知的な仕切り」がどうしても必要ではあります。

    特にネットが普及して情報が溢れ出し、単に「ベタな熱意」だけでは通用しなくなってきた今の環境ではその傾向がどんどん強まっている。