『紫式部と戦国武将たちの京都』(光文社・知恵の森文庫)などの記載を元にした京都グルメシリーズが好評なので、今回はグルメの都が大阪から京都に移ったというお話。
もともと京都は、グルメの都というわけではなかった。「大阪の食い倒れ」というように、浪速の町こそ日本の食文化の中心である。京都でも、海外から来るVIPを接待するのは、岡崎の「つるや」や嵐山の「吉兆」など、大阪の名だたる高級料亭の支店や暖簾分けを受けた店だった。
それも当然で、京都は海の幸に恵まれていない。美味しい刺身など新鮮な魚介類を必要とする料理は無理だったのである。肉類については、最近はともかく、以前は日本料理の主役ではなかった。野菜も、それ自体を楽しむというのは、最近の健康志向の中でのことであるため、海から遠いというのはグルメの都として致命的な障害だった。
しかも、担い手の問題があった。お公家さんたちは、美味しいものを食べたい欲求はあったが、やはり見た目や儀式、手順などにそれ以上に気を遣う人たちである。坊さんたちも京都文化の担い手の主役だが、なにしろこちらは魚を食べられない。花街でも、美味しいものを食べることが主目的にはなり得なかった。
どこの土地でも、やっぱり食文化の牽引車は町人たちである。形式にとらわれず、実質本位で本音で動けるのは彼らなのである。武士などというのは、いない方がよい。江戸でも「大奥料理」など聞いたことがない。毒味を繰り返した冷めた料理や、堅いものを避けた気の抜けたものばかりを食べていたらしい。なにしろ武士は質実剛健、「食べ物の好き嫌いなど言うな」という世界なのだから仕方がない。
江戸は武士が主役の町であったため、江戸の食文化の担い手は下町の庶民だった。そのため、東京の料理文化も関西からの借り物は別として、江戸の天ぷら、寿司、蕎麦のようなファーストフード系から発展したものだった。
だから、大阪こそが日本料理の中心であり続けた。しかし、このところ、京都の料理界は黄金時代に「突入しつつある」。ひとつには、輸送や冷蔵技術の進歩で、新鮮な魚介類などが海から離れた京都でも手に入るようになったことが挙げられる。さらに、健康志向で野菜や大豆料理が注目されている。