1985年8月12日、東京・羽田空港発、大阪・伊丹空港行のJAL123便が、群馬県多野郡上野村の高天原山(御巣鷹山)の尾根へと墜落した。乗客乗員524名のうち520名が亡くなるという、日本史上最悪の航空機事故「日航ジャンボ機墜落事故」である。
事故調査委員会によれば、事故の原因はボーイング社の不適切な修理にあったとされている。後部圧力隔壁が飛行中に破損し、垂直尾翼と補助動力装置が脱落、さらには油圧操縦システムが全喪失し、完全に操縦不能に陥って迷走飛行の末、御巣鷹の尾根に墜落したのである。
しかし、この大惨事には謎が多く、いくつもの不可解な点が指摘されている。現在でもその原因追及を続けているジャーナリストや研究者が多数存在し、書籍も毎年のように出版されている。
そこで今回はこの事故にまつわる、とある謎について取り上げた記事を再掲する。記事では事故機の破片が伊豆で発見されたという話を追い、発見者の証言と彼にかけられた圧力、そして隠蔽工作についてが語られている。
今も謎多き日航ジャンボ機墜落事故。相模湾上空で垂直尾翼を失い、制御不能のまま飛行して群馬県御巣鷹山に墜落。垂直尾翼の破片の大半が相模湾に落下、今も海中に没したまま分析不能なことから、米軍機の誤射によって墜落した「米軍撃墜説」「テロによる犯行説」「核兵器運搬の証拠隠滅説」「UFO撃墜説」などが囁かれ続けてきた。しかし21世紀に入り、そのジャンボ機の破片が伊豆で発見されたという珍事件をご存知だろうか? 今回はこの情報に関してよく知る者から聞いた、本当にあった封印された不思議な話を紹介しよう。
「……あれはその、ちょうど今くらいの季節かな。山の水(貯水タンク)を見に行った時なんだけどさ、ついでにわらびなんかがあったらいいな、なんて思ってね。そんでばあさんも行くなんて言ってたけども、雨の後だし、足元が危ないから俺が行くよ、なんて言って出かけたのさ。そしたらあんなもん見つけちゃったもんだからさ、本当にびっくりでさ」
そう語るのは、南伊豆のある地域で暮らす農家・Tさん(78)。Tさんは今を遡ること約10年前、自宅裏の山深い場所に設置した山水用の貯水槽を確認すべく、山へと入っていったのだという。その日は、数日前から霧雨が続き、水が濁っていた。しかしそれでいて、水の勢いがなかったことから、不審に思い確認しようとしたという。
「秋の落ち葉が多い時期なんかもそうだけども、雨が続くとさ。ここいらはすぐにタンクにゴミや落ち葉なんかが詰まっちゃって、駄目になるんだよ。だからその日も、どうせそんなことだろうって思って入ったんだけどもさ……」
自宅の庭から続く細い林道から、地元民でも来ないような獣道をおよそ20分、Tさんは貯水タンクを目指した。だが、そのすぐそばに着いたときに、彼はある異変に気づく。降り続いた雨のため、貯水タンクよりも上の方にある山肌が崩れ、多くの樹木や土砂などで、タンクの周囲が荒れ果てた状態となっていたのだ。
「こりゃあ、参ったなーって思ったさ。だって結構な大きさの枝だのなんなのが、ガーって崩れて埋め尽くしてるんだから。でも文句も言ってられやしないから、1個ずつ片付けていったわけ。石だの枝だのをさ。そしたらね、なんか変なもんも落っこちてるのよ」
山肌の崩落により崩れ、折り重なるようにタンクの周囲を埋め尽くす枝葉や土砂に混ざる形で、Tさんは、見慣れぬものを目にする。それは、ところどころ鈍い輝きを持った、大きな金属片のようなものであった。
「最初はなんだかわからなかったよ。あんなところ、農機も入らん場所だからさ。それでもって片付けた後に(山を)下ってきて、近所の人らに話したの。そしたら、『おめえ、そらジャンボ機の部品でねえか?』なんて(彼らが)言うもんだからさ、駐在さんに届けてね、みんなで見に行ったわけ。そしたらやっぱりそうなんだろう、って」
日本航空123便墜落事故は、その後に回収されたフライトレコーダーの記録などから、相模湾上空で「謎の爆発音」が発生し、その後、伊豆半島南部にある河津町・下田市上空を旋回するようにして通過、富士山方面へと向かったことが判明している。だが、この事故の際に機体から落下したと思しき部品の一部を、時を経て21世紀に入ってから、はからずもTさんは発見してしまったのである。
「これはとんでもねえもんを見つけてしまったなって思ったよ。なにせ、ああいう事故だったからさ、俺も当時は相当驚かされたんだわ。それがね、まさかうちの裏の山なんかで部品が出てくるなんて、夢にも思わねえもの。何年も経ってるのにさ。逆になんで今まで見つからなかったんだ? って思ったりしてね」
たしかにTさんが指摘するように、当時は最終的に機体が激突し、群馬県の上野村周辺のみならず、件の「爆発音」が発生した相模湾付近も大規模な機体の回収・調査活動が行われていたことは、当時の資料に目を通しても明らかだ。当然、その捜索は、同機が最初に通過した陸地である伊豆半島南部地域においても行われていたと見るべきだろう。そうした意味で言えば、事故発生から長い時間が流れた後で、このような形で発見されること自体、ある意味、“異常”と言わざるを得ない。
「まあ、あれだけしょっちゅう近くなんかに行ってね、わらびだの何だのを毎年のように探してたのに、あんな大きな部品が目に入ってこなかったっていうのは不思議だけども、結構(山肌が)崩れてたしなぁ。かなり上の方から落っこちてきたのかもしれねぇなぁ」
自らが発見できた理由についてそう推測するTさん。しかし彼の発見は、その後、意外な形で、闇へと葬り去られることとなる。
■脅迫めいた謎の電話
「近所の連中や駐在さんを連れて山に行ったあと、2日3日経ってから、町の方の警察の人が来たりしてさ。しばらく賑やかな感じになっていたんだけども、(発見から)1週間くらいした頃かな。電話がかかってきたのさ。こんな田舎なもんで、電話なんてかけてくる家はあんまりないこって、東京にいる子どもらにでも何かあったんかと思ってとってみたらさ、知らない男でさ。“見つけたもんはさっさと忘れろ、もうこれ以上誰にも言うな”だなんて言い出すの。なんだこいつは、って思ったけどさ、その話しぶりがね、脅すような感じだったもんだからさ、怖くなってね。それからは黙ることにしたっていう」
件のジャンボ機から落下したと思しき機体の一部を見つけたTさん宅に、いきなりかかってきたという謎の電話。そのただならぬ気配に怯えた彼は、その後、なるべく早く自らの発見を忘れるように心がけたという。また、そうしたある種の「脅し」ともとれる“見えない力”は、集落全体にも及んでいた。
「最初に電話かかってきたときにさ、近所の連中にも聞いてみたら、同じような電話がかかってきたってみんな言うもんでさ。これはきっと偉い人が、命令してかけさせてるんだろうっていう話になったもんだからね。みんなで話し合って、さっさと忘れようって。そりゃあ、気になるよ? 気になるけどもさ、俺を含めた年寄り連中はいいけども、子どもや孫だっているわけだからね。そういうのを考えたら、見なかったことにしちゃうっていうのが賢いだろうってさ」
それ以来、Tさんによる発見は、集落全体としても『なかったこと』にされ、いつしか誰も口に出さないようになっていたという。だが、仮にそうだとするならば、問題の部品は、今なお、Tさん宅の裏山にあるということになるのだが…。