こうした背景には、庶民の外食に対する関心の高まりがあったことでしょう。
このような動きは何も京だけで起こったわけではなく、江戸でも似たような動きがありました。ただし17世紀の江戸では、まだ本格的な料理屋というものは存在していなかったのです。
江戸時代初期には、幕府が飢餓対策として五穀の無駄遣いを禁止し、うどんやそば、饅頭といったものの商売が一時的に制限されてさえいました。
食事といえば簡素なものが主流で、街中では煮売屋が煮物や簡単な料理を売り歩く形が一般的だったのです。
そのため京で見られるような「料理屋」と呼べるものはほとんでありませんでした。
しかし、江戸時代も中期に入ると、江戸においても食文化は次第に多様化していきました。
特に信州産のそばが江戸で評判を呼び、そば切りが庶民の間で人気を博したのです。
『本朝食鑑』によれば、信州や関東近郊では良質のそばが生産され、江戸の町では信州産のそばが広く使われるようになったといいます。
そば屋は18世紀に入ってようやく登場し、そばとともにうどんが江戸の食文化の一部として根付いていきました。
このように、江戸時代中期を境に、日本の食文化は少しずつ外食産業としての形を成し始めていきました。
都市の商人層を中心に、食事は日常の楽しみとして捉えられ、その需要に応える形で茶屋や料理屋が次第に発展していったのです。
外食文化が花開いた化政時代
このように江戸時代中期にかけては外食文化が花開いていたものの、松平定信が行った質素倹約を是とする寛政の改革により、その華やかさは一時的にしぼみました。
しかし、定信が権力の座を降りると、食の世界は再び活気を取り戻します。
化政期(1804年 – 1830年)に入ると、江戸の町には数えきれないほどの飲食店が立ち並び、五歩歩けば飲食店、十歩歩けば別の店に出くわすといった状況になりました。