ただし、丁寧に読んでみると、高岡も「社会国家」を使用することへのためらいがあるように思われる注13)。

似て非なる表現

なぜなら、本文での表現を抜き出してみると、

「福祉国家」≒「社会国家」(高岡、2024:420) 「福祉国家」(「社会国家」)(同上:426) 「社会国家」・「福祉国家」(同上:427) 福祉国家と社会国家は別のカテゴリー(同上:429)

などが並立しているからである。これらから判断すれば、両者は到底同じものではありえない。

しかも「筆者が採用したのが、一般に「福祉国家」に相当するドイツ的概念とされている『社会国家』Sozialstaatであった」(同上:431)。

日本語としての「社会国家」には疑問

ただ既述したように、ドイツ語のSozialstaatはフランス語のÉtat socialに匹敵して、いずれも「社会国家」という日本語訳になる。

だから私は、ドイツ語とフランス語の場合はそれぞれの単語の使い方と意味は了解するが、それらを日本語として「社会国家」と訳すのは、社会学の伝統から逸脱するのではないかという疑問を持ってきた。

なぜなら、すでに前回「上」で掲げた表1で示したように、社会学では社会と国家は別次元の概念なのであり、簡単につなげて使えないからである。

近現代日本における『社会国家』化の諸段階という表現にも違和感

そのうえで、「筆者は川越修氏が再定義した『社会国家』概念(工業化、都市化、近代家族化などの社会変動に対する国家の対応)に依拠しつつ、近現代日本における『社会国家』化の諸段階を

1920年代(「社会国家」化の萌芽期) 1930~50年代(「社会国家」化の第一期) 1960~80年代(「社会国家」化の第二期)

と捉える仮説を提示し」(同上:431)たことにも、私は違和感を強く覚える。

高岡は序章の注(6)において、「『社会国家』とは通例、「社会的基本権を認めたワイマール『社会国家』の伝統を持つドイツにおいて『福祉国家』を指して用いられる概念」(同上:396)と見なした注14)。

シュナッペの「福祉国家(État-providence)論