「京都の人はやっぱはんなりしてますね」といわれて、「いやあ、私が住んでる嵯峨なんか京都というても田舎やさかいに」と返されて戸惑う人も多いのですが、誰しもから認められる京都人とは、どの地域なのでしょうか。

という話をグルメ情報にもふれながら、少し、お話ししましょう。拙著「紫式部と武将たちの京都」(知恵の森文庫)の一部を再編集・加筆しています。

京都というもっとも広い定義は京都府ですが、これは明治以降のことです。丹波や丹後が京都だなんて誰も思いませんでした。京都には郡部という言葉もありました。京都府内で市制を敷いたのは、京都は制度ができたのと同時の1889年ですが、二番目は伏見市で1929年ですがすぐに京都市に編入されました。

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戦前には福知山と舞鶴も市制を敷きましたが、1970年代までは両市も含めて、「市内」と「郡部」と区別していました。

洛中洛外を区別したのは、豊臣秀吉の御土居ですが、鴨川の西だけですし、防衛のために標高が高い洛北を広く含んでいるのが難です。

むしろ、大事なのは、明治になって市町村制ができてから、いつごろ京都市に吸収されたかということです。

市政が敷かれた当初は、京都駅も東西本願寺も市外の大内村です。洛北も鞍馬口以南まででした。

一方、鴨川の東は京都大学付近まで入っていました。大正七年までに、愛宕郡野口村、鞍馬口村、下鴨村、田中村、白川村、大宮村、上賀茂村、葛野郡衣笠村、大内村、七条村、朱雀野村、西院村、紀伊郡東九条村、柳原町、上鳥羽村などが合併され、下鴨、衣笠、田中、白川、鳥羽、深草あたりが市域になりました。

このあたりまでが胸を張って京都と言える範囲ですが、1931年に伏見市の他、山科、醍醐、太秦、嵯峨、松尾なども合併され、ほぼ現在の京都市に近い形になりました。八瀬、大原、岩倉以北、淀、大枝などが合併されたのは戦後のことで、2005年には丹波国北桑田郡京北町を合併しました。