比叡山は海抜848メートルです。京都でいちばん高い山と思っている人が多いのですが、実は、北西の嵯峨の奥にある愛宕山が924メートルで最高峰です。

京都人は京都の山と思っていますが、延暦寺は府県境にまたがってますし、根本中堂など主要部分は大津市にあります。世界文化遺産では、「古都京都の文化財」のなかに延暦寺も入っているので、やや蝙蝠的存在です。

延暦寺の寺域は山頂の南北約6キロ、東西約4キロの区域に、東塔、西塔、横川という三つの地域にわけて伽藍が並び、大津市側の山麓の坂本に僧たちの日常生活の場である里坊があり、日吉神社があります。東京の日枝神社のご本家ですが、厳密には坂本の分家が川越の日枝神社で、東京のはそのまた分家です。

また、比叡山山頂へは、ドライブウェイが普通ですが、ケーブルカーでも京都側は八瀬、大津側は坂本からいけます。

比叡山は、都の北東の鬼門にあたり平安京の鎮護を担っています。また、宣教師たちから「大学」といわれたように、まっとうな教育機関がなかった江戸時代以前は、相対的には最高の学問所でもありました。

叡山の中興の祖といわれるのが、九六六年に一三代目の天台座主となった良源(元三大師)です。藤原師輔と雅子内親王の間に生まれた尋禅を弟子にして後継者とし、摂関家の庇護のもと、荘園の拡大を図り、興福寺の末社だった祇園社を延暦寺の末社として、鴨川左岸を支配下に収めたりしました。

比叡山に貴公子たちを入れて、寄付を集め、それを大衆とか神人と呼ばれる、なかば僧侶ですが、結婚して家族をもった人々が金融業を営んで利益を上げました。室町時代には、京都の金融業者はほとんど坂本の住人でした。

僧兵が借金の取り立てをし、日吉神社の神輿を担いで、暴虐を働きました。うっかり矢でも当たろうものなら武士たちも流刑にされました。

ただ、コングロマリッドとして地域開発、貨幣経済の導入、さらには、貿易に力を発揮し、教学についての自由な雰囲気のなかから鎌倉新仏教の教祖たちも育っていきました。