「光る君へ」にも、比叡山延暦寺と園城寺(三井寺)がよく登場します。日曜日には道長と明子の子の藤原顕信が比叡山に出家してしまいましたし、紫式部の父である為信は園城寺で出家します。
そこで、少し拙著「紫式部と武将たちの京都」(知恵の森文庫)の一部を再編集して紹介します。
平安時代から室町時代を日本の中世といいますが、歴代の天皇や摂関をもっとも悩ました政治課題が、比叡山延暦寺(山門派)と園城寺(三井寺、寺門派)のいずれも大津市にある天台宗寺院同士の喧嘩の仲裁でした。
延暦寺の開祖は伝教大師最澄ですが、初代の天台座主は弟分の義真でした。そのあと、四代目の慈覚大師円仁、六代目の智証大師円珍はいずれも唐に留学した偉大な宗教家で、円仁は最澄の弟子でしたが、円珍は義真の弟子でした。
円珍の一派が独立して園城寺(三井寺)を本拠に延暦寺と対抗すると、比叡山から弾圧された僧侶が避難することも多く、蓮如上人もその一人です。争いは、教義上の対立ももちろんありますが、経済上の利権争いという面もありました。
皇室や摂関家の側からすると、自由奔放な恋愛の結果として山ほど子供は生まれるが、分けてやれるほどの財産はない。そこで、天台宗とか真言宗の寺院に入れて、贅沢はさせるが結婚させないことにしたのです。こうすれば、各世代の御当主が何人子供をつくっても、一代だけ面倒見ればいいので、次の世代はまた同じように子だくさんでも破綻しなくなったわけです。
いずれにせよ、有力寺院は経済的にも豊かでしたし、律令体制の常備軍や警察機能が弱体化したなかで僧兵を擁していましたから、平安京の治安と経済秩序の維持に大きな役割を担っていました。
しかし、それに対抗する勢力として摂関家が清和源氏、上皇たちが桓武平氏を育てていきます。そして、彼らにひさしを貸して母屋を取られたといった趣であるのが武士の世だ、ということができると思います。