例えば、下谷の御徒町(現在の東京都台東区)では朝顔の栽培が盛んに行われ、御家人たちはその空地を植木屋に貸し出しながら、自らも朝顔の栽培に取り組んでいたのです。
こうした内職が町全体の名産となり、下谷御徒町が「朝顔の名所」として広く知られるようになったのも、この集団的な取り組みの結果です。
また、御家人たちは植物栽培に限らず、傘張りなどの手工業にも従事していました。
青山百人町(現在の東京都新宿区)では、傘張りが盛んに行われ、同心たちは協力して生産に励み、その製品を市場に出していたのです。
こうした内職は単なる生計手段ではなく、職人の技術向上をも促し、江戸の一つの文化として根付いていきました。
また傘づくりだけではなく江原素六のように楊枝(ようじ)作りを行ったりする者もおり、まさに多種多様な副業が行われていたのです。
このように御家人たちは、ただ武士としての誇りを持つだけでなく、日々の生活を支えるために知恵を絞り、工夫を凝らして生きていたのです。
植物栽培や手工業の内職は、彼らの生活の中で重要な役割を果たし、江戸の風物詩としても人々に愛されたいたことが窺えます。
武士の副業の中にもカーストはあった
しかし「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあるように、武士はたとえ貧しくとも気高くなければならないという価値観は江戸時代を通して残っていました。
そのようなこともあって、副業に対する御家人自身の考えは複雑なところがあったのです。
当時の人々は「武芸や学問の教授や刀研ぎといった武士らしい副業はまだ世間体がいいが、植物栽培や傘張りといった武士らしくない副業は世間体が悪い」と考えていました。
そのことは、先述した楊枝作りの副業を行っていた江原素六が楊枝を売る際に、夜間に脇差を見えないように挟んで頬被りをして売り歩いたことからも伺えます。