麻疹は世界で猛威を振るっている感染症であり、今なお多くの犠牲者を出しています。
そのような麻疹ですが、江戸時代の日本においても猛威を振るっていました。
それは現代におけるコロナ禍のパンデミックとも共通する部分が数多く見られます。
果たして江戸時代の人々は麻疹に対してどのように向き合っていたのでしょうか?
歴史上のパンデミックと言うと、スペイン風邪や黒死病が有名ですが、今回は日本の江戸のパンデミックについて見ていきましょう。
なおこの研究は文書館紀要55-70pに詳細が書かれています。
命がけの通過儀礼だった麻疹
麻疹(はしか)は、麻疹ウイルスによる感染症です。
麻疹ウイルスに感染すると、10日ほどの潜伏期間を経た後、38度ほどの熱が数日間続きます。
その後一旦熱が下がるものの、半日後に再び高熱が出て、その後全身に赤い発疹で広がるのです。
麻疹は通常であれば一週間ほどで回復しますが、重症化する場合もあり、その場合は肺炎や脳炎などといった深刻な症状を引き起こします。
さらに麻疹は現代でも発病してからの治療法はなく、病院で麻疹の患者に行われるのはもっぱら対処療法です。
そのようなこともあって麻疹はとても危ない病気であり、衛生状態がよく、高度な医療を受けることができる現代の日本であったとしても、感染した人のうち1000人に1人が命を落としています。
ただ現代では、麻疹は予防接種によって抗体をつけることができ、感染の危険性を大幅に下げることができます。
しかしそのようなもののない江戸時代においては麻疹の感染を防ぐことは困難であり、麻疹の感染は生死を分かつ一生に一度の通過儀礼として捉えられていたのです。
もちろん衛生状態も医療も現代より劣悪な江戸時代においては、感染して命を落とす人の割合は現代よりも多かったことは語るまでもないでしょう。
それゆえ「疱瘡(天然痘)は見目定め、麻疹は命定め」と呼ばれており、まさに命がけの通過儀礼でした。
絵を描いて回復を祈っていた江戸時代
それでは江戸時代の人は、どうやって麻疹に向き合っていたのでしょうか?
江戸時代の人々は、「はしか絵」と言われている浮世絵を手に入れることによって麻疹への不安に立ち向かっていました。
はしか絵には麻疹の治療にいいとされているものや逆に悪いとされているものありとあらゆる麻疹などに対する情報が書かれています。
例えば「麻疹を軽くする方法」というはしか絵には麻疹に効くおまじないとして「タラヨウの葉っぱを一枚とって、麻疹除けの短歌を書いて、川に流す」という方法が描かれています。
また「痘瘡・麻疹・水痘」 というはしか絵には、療養方法について、「麻疹を治すためにはよく栄養を取ればいい。そうすれば全快するだろう。ただし鶏肉や卵などは食べてはいけない」と書かれているのです。
さらに「はしか童子退治図」というはしか絵には神様の指示のもと顔や身体に赤い発疹のある麻疹童子を馬屋のたらいや角樽、屋形船などが取り押さえようとし、薬袋がこれを止めようとしている姿が描かれています。
なお馬屋のたらいは江戸時代において麻疹除けになると言われており、麻疹の退治を願う人々の思いを反映させています。
しかし絵の中でたらいと一緒になって麻疹童子を取り押さえている酒樽は麻疹流行時に「酒を飲んではいけない」と言われて経済的な打撃を受けた居酒屋、屋形船は麻疹流行時に売り上げの大幅に落ちた屋形船屋を表しており、また薬袋は麻疹流行時に治療薬が飛ぶように売れた薬屋を表していると言われています。
そのことからこのはしか絵は単に麻疹の治癒を願うだけでなく、麻疹の感染拡大を巡る様々な立場の人々の思惑を風刺した風刺画でもあるでしょう。
なおこのようなはしか絵は、麻疹から回復した場合はこの絵が新しい感染源にならないように直ちに捨てられました。そのようなこともあって、はしか絵は他の浮世絵と異なって現在あまり残っていません。