フロイトはナチス・ドイツ軍が1938年3月、オーストリアに侵攻する直前、ロンドンに亡命したが、その時は既に末期がんに冒され、自由にしゃべることすらできなかった。亡命1年後、フロイトは亡くなった。
興味深い点は、フロイトは当時、精神分析学の開拓者として絶対的な権威を有していたが、それゆえにというか、フロイトにひかれて集まってきたアドラーやユングは最終的にはフロイトと袂を分かっている。アドラーはフロイトのもとで学んでいたが、過去の原因論ではなく、現在、未来の課題を重視する未来志向の分析学を目指していく。専門家はアドラーの精神分析学を「個人心理学」と呼ぶ。フロイトの原因論ではなく、現実の課題を重視する目的論を標榜し、他者との比較などで生れる劣等感などを克服していく生き方を鼓舞した。21世紀の現代人にとってアドラー心理学は人気がある。アドラーは精神分析を社会生活の中で応用し、多くの貧者や少数派の人々を癒していくことに専念していった。
ちなみに、ユングは個人的な過去の無意識の世界を模索するフロイトのもとで学んでいたが、無意識の世界の解明だけに満足せず、個人の無意識の世界を超えたものが現在の存在に影響を及ぼしていると感じたユングは後日、「集合的無意識における原型の理論」で有名となっていく(「人類歴史が刻印された『集合的無意識』」2022年4月20日参考)。
フロイトとアドラーはナチス・ドイツがオーストリアに侵攻する前に米国やロンドに亡命したが、フランクルは家族と共に強制収容所に収容された。そこでの体験は名著「夜と闇」の中で描かれている。彼は生き延びるためには意味、価値を見出すことが不可欠と主張し、民族や国家の「集団的罪」を否定し、収容所にもいいドイツ兵士がいたと証言したため、他のユダヤ人から批判にさらされた。彼の精神分析はロゴセラピーと呼ばれる心理療法で、多くの学者が継承している。
収容所で家族を全てを失ったフランクルは解放直後、深い鬱に悩んだという。人生の意味を見いだせなかったからだ。新しい女性と出会い、再婚することで人生に意味を再び発見していく。著書「それでも人生にイエスと言う」は世界で多くの人々に読まれている。
フロイトは無神論者だった。アドラーは1896年にプロテスタントに改宗しているが、「神がいると思って生きるほうがいい」と述べていた。フランクルはユダヤ教徒だった。再婚した女性はオーストリアのカトリック信者だった。その相手とフロイトは死ぬまで50年余り共に生きた。
当方の個人的なエピソードだが、ナチ・ハンターで有名なサイモン・ヴィーゼンタール氏とウィーンで会見した時、同氏は「自分は世界から多くの名誉博士号を得たが、私以上に多くの名誉博士号を得た人物が一人いる、それはフランクルだ」と述べていたことを思い出す。
ユダヤ人の世界的物理学者アインシュタインはフロイトがノーベル生理学・医学賞を獲得したいと考えていることを知って、フロイトに「心理学は科学ではないよ」とノーベル賞受賞の対象外と諭す一方、「君はノーベル文学賞ならば得られるかもしれないよ」と述べたという。心理学は当時、まだ科学とは見なされていなかったからだ。同時に、フロイトの表現力、記述力にアインシュタインは感動し、フロイトの文才を高く評価していたという。
なお、オーストリアでは過去も現在も反ユダヤ主義が根強い。パレスチナ自治区ガザを実効支配しているイスラム過激テロ組織「ハマス」がイスラエルで奇襲テロを実行して以来、オーストリア国内でも反ユダヤ主義的犯罪が急増、2023年は1147件が登録されている。実数はそれ以上多い。フロイト、アドラー、フランクルの3人のユダヤ人の世界的な精神科医を生み出したオーストリアは同時に、アドルフ・ヒトラーが生まれた国でもある。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年6月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。