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トヨタ2000GT「以前」の日本と、国産車
走り始めていた「GT」だが
トヨタ2000GT「以前」の日本と、国産車
1965年(昭和40年)10月、トヨタ2000GTが発表されたのは太平洋戦争の敗戦(1945年8月)から20年、朝鮮戦争(1960年)の特需を契機として、「東洋の奇跡」と呼ばれた急速な復興を1964年の東京オリンピックでアピールした翌年でした。
既に1956年の経済白書では、序文に「もはや戦後ではない」とまで書かれており、1958年には東京タワーも開業していましたが、高層ビルの類は「百尺規制」とも呼ばれた高さ規制もあり、1965年3月に「日本初の36階建て高層ビル」である霞が関ビルを着工したばかり。
ただ、高度経済成長期(1955~1973年頃)のど真ん中であり、第一次ベビーブーム(1947~1949年)に生まれ、大量に都市部へなだれこんだ若者たちが潤沢な労働力として国力を支えているという、「頑張れば明日は良くなる」と思えた時代です。
道路の方も、1963年には初の本格的な都市間高速道路「名神高速道路」(栗東IC~尼崎IC間)の開通を手始めとして急速に道路網の整備が進み、一般道こそ東京オリンピックのため慌てて舗装したほど遅れていましたが、将来への見通しは立ち始めています。
ただし国産車、それもタクシーなど業務用を主用途としない一般の個人向けとなると、1960年代はじめまでに考えられていた「ソコソコの性能でも安くてお手頃なクルマ」のアテが外れ、見直しを迫られていた頃です。
代表的なのがトヨタの初代パブリカ(1961年)による初期型の失敗で、予想以上に所得が上がった一般庶民は、「少し値が張っても、もっといいクルマを!」と夢見ることが可能になっていました。
走り始めていた「GT」だが
それでは国産スポーツはどうだったか…というと、戦後いち早く量産スポーツを手掛けていたダットサン(日産)のダットサンスポーツ”フェアレディ”や、1963年に最後発で4輪へ新規参入したホンダの「S」(1965年当時だとS600)、トヨタスポーツ800があったくらい。
もっとも、ホンダSは半ば本田 宗一郎氏の趣味に近く、ホンダにとっての本命は1967年に登場する2台の軽自動車(N360とTN360)で、ダットサンスポーツも本命は北米などへの輸出です。
国内向けとしては、1964年4月には日本で初めて「GT」を名乗ったいすゞ ベレット1600GTが、同年5月にはプリンス スカイラインGTも登場しますが、いずれも当時のセダンらしい箱型ボディに高性能キャブレターつきエンジンを積むスポーツグレード止まり。
1964年の第2回日本グランプリでスカイラインGTがポルシェ904に破れたプリンスは、国産初のプロトタイプレーシングカー、「R380」を開発していましたが、市販車ではありません。
GTの語源である「Grand Touring(グランド・ツーリング)」にふさわしそうな、長距離を快適に高速移動できる豪華なクルマとなると、1965年4月に発売された日産の「シルビア」くらいで、これも姿形はともかくシャシーはフェアレディと同じくトラック由来です。
マツダのコスモスポーツ(1967年発売)も姿を現してはいましたが、ロータリーエンジンはまだモノになるのかわからない頃。
つまり2000GTが発表された1965年とは、日本の国民が次第に豊かになってきて、「ちょっと頑張れば、いいクルマが買えるぞ!」と思いつつも、「究極の憧れの的になりそうな国産車」が、まだ不在という時期でした。