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国産スポーツGTの元祖は、日本車史でどんな役割を果たしたか
2リッター直6DOHCを積んだ、ただのスポーツカーじゃないのか?
国産スポーツGTの元祖は、日本車史でどんな役割を果たしたか
過去にMOBYの「推し車」として紹介した中から、好評だった車種の記事をセルフリメイクして紹介する「MOBY推し車リバイバル」、今回は”トヨタとヤマハの初タッグ作「廉価版が初代スープラだった?」”で紹介した、トヨタ 2000GTです。
前回はトヨタのみならず、初めてタッグを組んだヤマハにとっても悲願であったスポーツGTとしての姿や、幻に終わった廉価版の話を中心としましたが、今回は日本の「スポーツカー」や「GT」の歴史において、トヨタ2000GTが果たした役割を考えます。
2リッター直6DOHCを積んだ、ただのスポーツカーじゃないのか?
トヨタ2000GT(以下「2000GT」)は1967年5月の発売以前、1965年10月の第12回東京モーターショーでプロトタイプを発表。
翌1966年5月には第3回日本グランプリへ出場(3位入賞)して走る姿が初めて広く一般に公開され、同10月には矢田部の自動車高速試験場でスピード・トライアルに挑んで、数々の世界記録を打ち立てるなど、現在のスポーツカーでもよくある流れで市販に至りました。
発売当時は車格・価格・コンセプトの全てにおいて同種の国産市販車が存在しなかったことから、「初の国産スーパーカー」とまで言われます。
しかし現在の視点で見れば、「クラウン用がベースの2リッター直6DOHCエンジンを積んだ、ただのFRスポーツ」に過ぎないとも言える2000GTが、なぜこれほど画期的でもてはやされるのでしょうか。
それを理解するには、当時の「日本」がどんな国であり、「日本車」とはどんな車だったのかを知る必要があります。