そろばんを子どもの頃に習った方は多いと思う。練習努力を続ければ、何十桁もの計算が、たった五つの珠の組み合わせで、数秒ないし十数秒で行えてしまう。
このマシンを使いこなすのに要るのは、「3+4」や「9-1」といった一桁の足し算引き算、それに九九の暗唱ぐらいで、あとは指の反射神経の練習を重ねればいい。
ちなみに「九九表」にあたるものが音楽にもある。時計と同じで、12等分の円形である。
「F」とか「B♭」などの文字について説明は省くが、これを使うと、ピアノの鍵盤をそろばんに見立てて、さまざまな音階にさっと曲を移調できるようになる。
以上のチャート図を頭に浮かべながら、彼の代表曲「戦メリ」や、155万枚売れた「エナジーフロー」や、YMO時代の編曲「ライディーン」などを、実際に鍵盤でゆっくり弾いていくと…
彼が鍵盤をそろばんに見立てて、指先で音楽的演算を行いながら、作曲しているのが体感できる。
それからもう一つ、彼の作曲を貫く特徴として、左利きのピアニストであることが挙げられる。
左利きの彼は、左手つまり和声側の手で曲を組み立てていて、右手はそれに従属するように回っている。さらには歌が下手な(それに活舌が悪い)ぶん、その右手が奏でる旋律は、美しく、リリカルではあるけれど、どこか歌いにくい。
先日(2024年4月7日、17日再放送)NHK特番「Last Days 坂本龍一 最期の日々」で、彼の亡くなる二日前の様子が映しだされた。癌の転移で肺がぼろぼろになり、呼吸マスクをつけて病床に横たわりながら、それでもなおオーケストラ演奏会(彼が2013年より音楽監督と指導を行ってきた、東日本大震災被災三県の子たちによる楽団)の生中継に見入り、自ら指揮するかのように腕を動かしていた。
ああなるほど、と思った。彼はこの二か月前(2023年1月)に肺炎をおこし、2月に胸に穴を開けて肺に直接酸素を送るようになって、3月に呼吸困難で緊急入院し、抗体治療という最後の望みも叶いそうにないと判断して、終末治療に切り替えていた。くだんの校歌の作曲が、いつ頃まで続けられたのかはわからないが、歌詞に曲を付けていく際に、おそらく彼は声にだして歌っていない。もはや歌う体力がなくなっていたのだ。
2023年3月28日午前深夜、亡くなる一時間前、昏睡状態のなか、坂本の指は動き続けていた。窓の外から聞こえてくる雨音とともに、その指が奏でていたのは、バッハか、ドビュッシーか、それとも新曲だったのか、それともくだんの校歌を、呼吸マスクごしに、指で歌いなおしていたのだろうか。
♪とわに時を流れ 旅続ける雫(しずく)――
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久美 薫 翻訳者・文筆家。『ミッキーマウスのストライキ!アメリカアニメ労働運動100年史』(トム・シート著)ほか訳書多数。最新訳書は『中学英語を、コロナ禍の日本で教えてみたら』(キャサリン・M・エルフバーグ著)。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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