ご承知のように、坂本はその優れた耳と鍵盤楽器演奏能力とは裏腹に、歌うのはとても下手だ。
そのせいだろう、自分で歌う楽曲については、彼の地声をほうふつとさせる、素朴でチャーミング、つまり誰にでも歌いやすい旋律が唄われる。
とりわけ「ぼく」という一人称で歌われるものには、味わい深いものがある。
以下は1995年のアルバム「スム―チー」収録のものから。
♪ぼくらは いしき(意識)の たび(旅)にでる
ユーロビート系が日本のヒットチャートを席捲するなか、この歌は(アルバムともども)商業的惨敗に終わったが、彼自身は「鍵盤といっしょに口ずさみながら作った。ぼくの地声が感じられる、お気に入りアルバム」という意の発言を残している。
もっとも、およそ30年の時を経た今、この歌を聴きかえすと、彼の素朴な地声と、鋭敏な和声耳の不和とその相克ぶりがうかがえて興味深い。
試みに皆さんにも、この歌「電脳戯話」の出だし部分を口ずさんでみてほしい。
♪ぼくらは いしき(意識)の たび(旅)にでる
私も含めて、多くの方は、下の旋律のほうが(やや野暮ったくなるが)きっと歌いやすい。
しかし彼が歌ったのは、この音だった。
伴奏を付けて歌ってみるとわかるが、赤の音を選んだほうが、小節全体ではぐっと洗練されたハーモニーになる。
ただ「レ↗ラ↘ミ」の動きだと、少々大股なジャンプで、ひとの喉には少々辛い。
彼の代表曲「メリークリスマス・ミスターローレンス」(いわゆる「戦メリ」)のイントロを口ずさんでみてほしい。
この曲は、映画音楽であって歌ものではないけれど、口ずさむと、とても歌いやすい。それはこの「ミ」が、続く「ラ」への跳躍台になっているからだ。
一方、この「電脳戯話」は、作詞家による「ぼ、く、ら、わ、い、し、き、の、た、び、に、で、る」のひとつひとつに四分音符(♩)の音を付けていくぶん、「ミ」がどうしても挿めない。
挿みたくても、音節が足りないのだ。
そういうわけで坂本は「レ↗ラ」(し・き)のあいだに「ミ」は挿まず、旋律を↗(急上昇)させている。
これは和声的にはスマートではあるが、歌うとなると、喉がやや苦しくなる。
それゆえ耳で覚えて歌うとき、股が広がらないよう、無意識に「ラ」を「ソ」に下げて歌ってしまうのだ。
口ずさみながら、彼も迷ったことだろう。しかし最終的には、和声的にスマートな響きとなる、
…を、彼は選んだ。
音楽理論をかじった方なら分かるだろうが「ミ・レ・ラ」の響きは、並べなおすと「ミ・ラ・レ」つまり4度音程と4度音程が縦に並ぶ、風通しのいい和音なのだ。(ピンとこない方には、作曲者は違うけれどアニメ「風の谷のナウシカ」のテーマ曲がやはりこの技で作られていると述べるに留める)
歌いやすさか、聞く際の心地よさか… 鋭敏な和声耳を誇る坂本が後者を選んだのも、自然といえば自然なことではあったのだろう。
しかし――遺作となった「神山まるごと高専校歌」を、伴奏を弾きながら口ずさんでみると、違うものが浮かび上がってくる。
鍵盤楽器が弾ける方は、どうか実際に指を置いてみてほしい。上段(つまり歌の旋律)の音はどれも白鍵オンリーで弾けるのに対し…
下段(伴奏)では、黒鍵(赤で括った音・B♭)が混ざっている。
続く小節では、再び黒鍵(赤で括った音)が混じり、それがやがて違う黒鍵(青で括った音)に入れ替わって、白鍵に戻る…
黒鍵が混じって、入れ替わって、いったん消えて、やがてまた混じりだす… この技は、坂本の多くの楽曲(というかほぼすべての楽曲)にみられるものだ。
ドレミファソラシの七音音階から、それとなく逸脱を仕掛けつつ、全体としては調性を保ち、やがてもとの七音音階に戻ってきて、その後再び調性がふわっと緩みだす…
彼は中学生の頃、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーの音楽と遭遇し、自我がとろけるような気持ちよさを感じたという。
いわゆる「調性の浮遊」だ。
坂本がロックスターに駆け上がるのを支えてきた、ある音楽家は「彼はいつも予想のつかない和声を繰り出してきて、ぼくらを驚かせた」の意の追悼を述べていたが、ドビュッシーが得意とした「調性の浮遊」という技をポップスに応用したものだと気づければ、彼の和声技法はくっきり見えてくる。