江戸時代は江戸に人口が多く流入しており、江戸は人口過密の状態にありました。
にもかかわらず江戸には建物の高さ規制があったこともあってヨーロッパのようにアパートが作られることはなく、江戸時代を通して多くの町人が狭い家に住んでいたのです。
どうしてこのようなことになったのでしょうか?
この記事でなぜこのような禁止令があり、これにより町がどのような影響を受けたのかについて取り上げます。
なおこの研究は、早稲田人文自然科学研究 53巻p.33-50に詳細が書かれています。
目次
- 江戸に入って三階建ての建物が建てられるようになるも、すぐに禁止
- 規制の影響は
江戸に入って三階建ての建物が建てられるようになるも、すぐに禁止
日本の都市は、昔から平面的に広がることが多く、積層して建物を建てるという発想はなかなか根付きませんでした。
たとえば京都などでは広大な都市計画が存在したものの、計画に見合うだけの人口が集まらなかったこともあり十分に土地利用が進まず、それゆえ立体化して多くの人が住めるようにするという動機はあまり生まれなかったのです。
鎌倉時代や室町時代においても、都市中心部での高度利用はあまり見られず、それゆえ都市部の中心に住むことのできない町人は郊外に住まいを求めていました。
安土桃山時代に入ると、宣教師たちは南蛮寺という教会を京都に建設する際に、土地不足を解消するため住居併設の三階建ての建物が計画しました。
しかし住民は、伝統的な生活様式に反するという理由で反発しており、市の立体化には、物理的な制約だけでなく、文化的な抵抗も根深かったことが窺えます。
江戸時代に入って江戸の開発が進むと、この状況は変わります。
日本橋の一帯にて、裕福な商人たちがこぞって三階建ての町屋を構えたのです。
その豪壮な姿は、江戸図屏風にもしっかりと描かれています。