しかし、1960年代も終わり近くになると、コンテストの最も盛んなアメリカでフェミニズムが台頭し、外見のみの評価ゆえ頭は空っぽといった女性の誤ったイメージを流布する、選ばれるのは白人ばかりの人種差別などの批判が起こった(Smithsonian MAGAZINE, January 2018)。
こうした批判は社会的にも共有されるようになり、コンテストのあり方に改善を促すことになった。たとえば、スピーチで教養を示す、誇れる特技の披露や有意義な社会活動を紹介するなど容姿だけではないことをアピールする機会が設けられるようになった。
また、出場者自身も医師や弁護士、科学者であったり、あるいはそれらを目指していたり、社会的エリートも珍しくなくなっている。しかも、上記のように、ミセスやミスターの大会も開かれるようになった。
しかし、最も思い切った改革は、2023年に「ミスユニバース」が行った未婚かつ出産経験のない18歳から28歳までという資格要件を撤廃し、18歳上のすべての女性が応募できるようにしたことであろう。
こうなると、名称も「ミズユニバース」に変更した方が良さそうだ。近年は、非白人女性の出場も増え、優勝者も輩出するようになった。たとえば、ミスワールド、ミスユニバース、ミスUSA、ミスティーンUSA、ミスアメリカの2019年大会の優勝者は全員黒人女性であった(The National, 2023/01/17)
とはいえ、依然女性(あるいは男性)の身体の搾取という根強い批判を払拭できていないうえ、今日のように美しさが多様化し、一括りにできない時代にあって、唯一の美を選ぶことに何がしかの意味があるのだろうか。とりわけ、コンテストの対象となる女性たちにとってのメリットは何か。
コンテストの賛否を整理したウェブサイトでは、そのメリットには美に磨きをかけ、教養を身につける努力によって自己研鑽の機会になる、自信が高まる、社会的繋がりが大きく広がる、賞金や奨学金の獲得など女性が受ける(可能性のある)利益のほかに、地域経済の活性化などが挙げられている(24 Beauty Pageants Pros and Cons)。
いずれも優勝者には有益である。けれども、これらの事柄、美人コンテストに出場しなければ獲得できないわけではない。
社会における女性の選択肢が非常に限られていた時代であればともかくも、いずれも女性が様ざまな機会や経路を通して手に入れることのできるものである。美貌を誇るのであれば、それを活かしたり、世界の賞賛を得たりする手段はいくらでもある。自己研鑽もやる気があれば、誰もが何処ででもできることだ。
確かに、美人コンテストは石野氏が指摘するように時代遅れの昭和の遺物である。しかし、私が問題にしたいのは、コンテストが人を鑑賞物として「モノ化」し、まるで絵画や彫刻のように扱う点である。
ファッションモデルや俳優も見られる存在ではあるが、視線の対象は少なくとも建前(?)では衣装、演技だ。コンテストの出場者が努力して美に磨きをかけ、知性や教養を向上させようとも、かれらに求められるのはオブジェクトとしての身体を衆目に晒すことである。
と、つい極論に走ってしまった。美とは縁遠い人間の僻み、である(トホホ)。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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