そもそも、前述のように、武士たちは米を売って生計を立てている。デフレ不況は庶民にとっては大打撃だが、武士階級を救うことにつながる。
寛政の改革を主導した老中の松平定信は、商人の生活にも配慮し、極端な倹約令を出すことはなかった。ところが天保の改革を主導した老中の水野忠邦は、徹底的な贅沢取り締まり、質素倹約の強制によって江戸の経済が衰退し、商人が困窮しても、武士の生活さえ良くなれば構わない、という極論を唱えている。しかし、デフレ政策の採用は、武士階級の救済だけが原因ではない。
江戸の繁栄は、江戸への人口集中を生み出した。地方の農村から人口が流出し、江戸に集まってきたのである。農村人口が減少し都市人口が増加するということは、生産者が減り消費者が増えることと同義である。凶作の年には飢饉が深刻化することが懸念された。
天保の改革の半世紀前に行われた松平定信の寛政の改革でも、農村を捨てて江戸に流入した貧困層に対して帰農を促してきたが、効果は薄かった。江戸は娯楽や働き口が多い魅力的な町だからである。寛政の改革は現代の「地方創生」と類似の困難に直面して立ち往生した。
松平定信による農村復興政策は失敗した。その後、文化・文政期には幕府は緊縮財政から積極財政(放漫財政)に回帰し、好景気に沸く江戸への人口集中がますます進んだ。
そこで水野忠邦は、江戸経済を政策的に不況にし、江戸の魅力を減じるという過激な手段によって、江戸一極集中を是正しようとしたのである。
こうした水野のデフレ政策に真っ向から抵抗したのが、江戸市政を預かる江戸北町奉行の遠山金四郎景元である。遠山は、天保の改革が全ての贅沢を禁じ、倹約を徹底したことで、江戸が甚大な不景気に陥ったことを憂慮していた。
遠山は将軍のお膝元である江戸が寂れることは幕府の権威にも関わるので、倹約令を緩和すべきだと水野に上申した。具体的には、禁止品目を列挙した詳細な倹約令はやめて、身分相応の衣食住を命じる緩い倹約令を出すことを提案している。つまり「自粛」レベルで充分だろう、というのが遠山の見解であった。
水野は遠山の提案に激怒し、贅沢禁止を嫌がる町人に迎合するような倹約令を出しても無意味であると反論している。遠山は厳しすぎる倹約令は江戸の衰退と町人の離散を招くと考え、倹約令に手心を加えるよう願い出たわけだが、そもそも水野は江戸の人口減少を狙っているので、両者の溝が埋まるはずもなかった。
江戸衰微による幕府の威信低下うんぬんはタテマエであり、遠山が本当に気にしていたのは江戸の治安悪化だったと思われる。デフレ不況は日雇い労働者などの下層民の生活を直撃する。
その上、彼らから娯楽を取り上げれば、暴徒化する恐れがあった。当時は数年前に大坂で起こった大塩平八郎の乱の記憶も生々しく、大工や左官などの職人、鳶人足、行商を行う小商人などの深刻な生活苦は、遠山ら町奉行に打ちこわしの恐怖を感じさせたのである。
寄席全廃を命じる水野に対し、遠山は、勧善懲悪を説く講談は道徳教育の役に立つこと、全廃となれば芸人の生活ができなくなること、下層民から娯楽を奪えば酒色や博打に走ることを指摘した。
こうした遠山の姿勢は、まさしく江戸庶民の味方、「名奉行・遠山の金さん」を彷彿とさせる。次回は、水野と遠山の対立の帰結を見ていこう。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
【関連記事】
・「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
・大人の発達障害検査をしに行った時の話
・反原発国はオーストリアに続け?
・SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
・強迫的に縁起をかついではいませんか?