「歴史には数理性があって、一定の数理性(例、21、40)に基づき、次元こそ異なるが、同じような出来事、事例を繰り返しながら展開している」といった歴史観がある。近代に入ると、カール・マルクスは「下部構造が上部構造を覆す(革命)ことで労働者の天国が生まれてくる」といった共産主義の史的唯物論の歴史観が生まれてきた。

ウィーンの夕焼け風景(2024年1月1日、撮影)

興味深い歴史観としては、「歴史は受難を通じて発展してきた」という「受難思想」がある。激動の年と予測される2024年が幕開けしたことを受け、ここでは「受難が歴史発展の原動力となってきた」という受難思想を少し考えたい。

受難とは試練や困窮に直面している状況だ。個人から家族、民族、国家、そして世界まで過去、人類はさまざまな受難と対峙しながら生きてきた。受難を経験していない個人、家族、民族、国家は存在しないだろう。ただ、その受難をどのように克服していくかで、その後の展開は異なってくる。受難に押しつぶされてしまう場合もあるだろう。自己憐憫に陥って這い上がれなくなる人も出てくる。犠牲者メンタリティは受難を昇華できずに、自己形成で刻印されていく場合だ。

例を挙げて考える。世界のディアスポラ・イスラエルの歴史は受難の歴史でもあった。ヤコブから始まるイスラエルの歴史は異教の神によって支配され、400年の間エジプトのパロのもとに奴隷の苦難の日々を送ってきた。そのイスラエルにモーセは現れ、60万人のイスラエル人を率いて神の約束の地カナンを目指してエジプトから出国していく話は旧約聖書の「出エジプト記」に詳細に記述されている。

イスラエルの歴史では、「苦難の状況から脱出し、神の約束の地を目指す」というのがメインストリームだ。ところが、考古学者はモーセが60万人の民を率いてカナンを目指したという旧約聖書の話を実証する考古学的な痕跡を探してきたが、モーセの墓ばかりか、そのカナンへのルートでの痕跡すら見出すことが出来ないでいる。そのことから、「モーセの出エジプト」の話はイスラエル人の作り話で、実際はイスラエル人は元々カナンに住んでいた民族だった。“神の選民”を強調するため「エジプト400年」の苦役の話をわざわざ付け加えて「出エジプト」の話が生まれてきたのではないか、と指摘する学者がいる。

換言すれば、イスラエルでは受難が民族の発展の原動力となっている。「受難を通過せずしては、神の選民とはなり得ない」という考えがその根底にあるのではないか。

それではなぜ受難が歴史発展のうえで不可欠と考えるのだろうか。その答えは聖書の世界から見出すことが出来る。神は自身の似姿でアダムとエバを創造し、その創造した世界を彼らに継承させようとしたが、「失楽園」の話でも記述されているように、悪魔の暗躍で神の創造計画は実現できずにきた。そこで神はそれを取り戻すために救済の摂理を歴史を通じて展開させてきた。

神が実行したその救済方法は万軍を派遣して悪魔を打ち倒すのではなく、自身の息子イエスを使わし、イエスを十字架に掛けることを通じて、人類救済の道を切り開いていったわけだ。ここに「受難」に対するキリスト教的意義が明らかになるわけだ。

そしてイエスを信じるキリスト教徒たちは同じように多くの迫害、受難を受けながらその教えを広げていった。世界的に迫害を受けてきたキリスト教が世界宗教に発展したのはズバリ、受難だったわけだ。

参考までに、ここまでくると、「なぜ神は愛する息子、娘を一挙に救済しないのか」という、キリスト者ならば一度は考えた疑問が生まれてくる。神は無能か、それとも人間の苦悩に関心がないのか、等々、多くの疑問が生まれる。明確な点は、神がその全知全能を駆使して苦しむ人類を一挙に救済できるならば、受難は考えられないことだ。

聖書の世界では神は奪われたものを打ち返して取り返すのではなく、打たせてから取り戻すという原則に基づいて救いの摂理を展開していることが理解できる。受難思想はその意味で神の摂理の原則と一致するわけだ。