体験格差は本当に問題か?
体験がないことで何が問題なのだろうか?
筆者は家族旅行や音楽鑑賞といった経験がなかった。その代わりに持て余した時間で家でゲームばかりしていた。思春期はゲームの進化とともに過ごしたことで、テクノロジーの進展を肌身で感じることができコンピューター性能進化やグラフィック、BGMに強い関心を持ち、図書館や書店の立ち読みでコンピュータやゲーム雑誌を読み漁った。それが現在のITへの興味、そして仕事へとつながっていった感覚がある。
また、本が好きで読書をしていたことでずっと活字に触れてきた。それが現在、本や論文を読み、文章を書く仕事へとつながっていったという感覚も強く感じる。
つまり、筆者は外部から提供されて触れた文化で覚醒したので はなく、自ら興味を持った対象を好奇心に惹かれて自分で深堀りしていったということだ。好奇心は外部から機会を与えられ、育てられるものではなく、自分で積極的に開拓する性質を持つ。
筆者は大人になって余裕を得てから、子供時代に振られらなかった数多くの文化を取り戻すようにたくさん触れた。音楽、美術、料理、旅行、プログラミングなど、かなりの時間とお金を投資した。その結果、わかったことは体験というのはやたらめったらお金をかけてあれこれ数多く触れれば良いというものではなく、元々持っている強い好奇心と出会わなければ、体験してもほとんど影響はないという仮説である。
それを裏付ける体験として筆者は思春期の頃、学校の音楽の授業や芸術鑑賞の課外授業は寝てばかりだが、大人になってどれだけ音楽や芸術に触れてもやはり心が動かなかった。元々、食べることが大好きで子供の頃からフライパンを使って勝手に卵焼きを焼いたりしていたが、大人になって調理器具を買い揃えてからは本格的に料理を研究し、腕を磨いて今は毎日三食作るようになった。
もちろん、自分は何に興味があるのか?を知る起点に体験が必要なものの、今どき、あらゆる文化に触れる手段や入口は用意されているし、触れることに巨額の資本など要らない時代だ。どこの学校でも最低限の文化体験は用意されており、それで十分に感じる。現代はクラシック音楽に触れるにはコンサートへいかなくても、無料で世界最高の音楽に触れられる。そこで好奇心が震える体験をしたならば、そうした人物は自ら音楽の道へ進む決定を本人がするはずだ。